シルバーペーパー

秘密結社「シルバーペーパー」

無職の心得

今まではTwitter等でふざけて言っていた「無職の心得」だが、頭の中でまとめていたらそこそこ形になりそうなので記事として投稿しておく。

《無職の心得・1 家族を大切にしろ》

これこそが無職の心得の中で一番大切なものである。

働かなくてもお金をくれるのは家族だけ。家で寝ているだけでも料理を作ってくれるのは家族だけ。
故に、父親か母親との関係性が劣悪な人間、或いはそのような家庭環境で育った人間は、その時点で既に無職としての適性をかなり欠いていると言わざるをえない。

《無職の心得・2 心身の健康を大事にしろ》

身体の不調は心の不調に繋がるし、心の不調は集中力の減退に繋がる。
集中力が減退すると、楽しい活動が一切できなくなってますます悪循環だ。

精神病の人間は、自分がダウナーな時に楽しい活動が出来るかどうかという点において、試練を課されていると指摘せざるをえない。

《無職の心得・3 選択肢を広げろ》

暇は敵ではない。漫画に飽きたらPCゲーム。PCゲームに飽きたらエロゲ。そんな風に、自分がどんな精神状態の時でも楽しめるものを常に周囲に置いておくべきだ。

大学を辞めたい、或いは高校を辞めたい、そう親に言った時に「選択肢を広げるためにも学校には行け」と返された人間は多いだろう。それと同じ事で、選択肢を広げるために、自分の周りには創作物をたくさん配置しておくべきだ。

「置いておく」というのが非常に重要で、これを普段からやっておかないと、ダウナーな気分から這い上がれなくなる危険性がある。だから、漫画が好きなんだったら10冊くらいは常に買い溜めしておくべきで、PCゲームやエロゲについても同様である。

色々「訓言」みたいなことを書くこともできるが、こんな感じで、無職の心得で一番重要なのはこの3つである。

父性の欠落

前から思っていて、友達には何回か話している仮説なんだけど、今回は「父性の欠落」について自分が思っていることを書く。カテゴリ的には発達心理学的な領域になる。

幼い頃から父親が不在――不在というのは文字通りの「不在」もしくは機能不全を指す――という環境で育った人間は、思春期以降に父性が欠落した存在になる。

この父性が欠落した人間は、主に以下に挙げるようなことが出来なくなる。

1.アイドルアニメのような、父性を刺激するものを楽しむこと。
 単純に言って、「何が面白いのか分からない」というレベルまで達することが多い。
 同じ作画監督の、同じ原画の、同じ脚本家の別のアニメはいくらでも楽しめるのに、「アイドル物」だけはダメ、みたいなことが起こりうる。

2.スポーツを観戦すること。
 日本中が熱狂しているようなサッカーの国際試合や、プロ野球の中継を見ても「何が面白いのか分からない」。
 格闘ゲームFPSを、自分がプレイする分には楽しむことができても、プロの世界大会の中継を見ても楽しむことができない。

3.創造的な活動をすること。或いは、0を1にするような作業をすること。
 これは、例示が難しいが、概ね、理系的な作業ができても、文系的な作業ができない、と言い換えることができる。
 例えば、プログラムを書くことができても、絵を描くことができないなど。真剣に考えればもっと例はあるはずだが、一番身近な例を挙げた。

自分は、これらの「不能」は、全て父性の欠落によるものだという仮説を立てている。 理由付けとしては、1番は自明なので置いておくとして、2番は肉体的なストレングスを発揮する存在がいなかったことによる、それへの無感動による。3番は少々難しいが、抗議不可能な超越的な存在の不在による想像力の発達不全によるものだと考えている。

よくわからないが、そういう仮説である。

最も有意義な時間の使い方

部屋の小さな置き時計が壊れた。

自分の所有する時計機能を持つ機械は、腕時計と、iPhoneと、その壊れた置き時計しかないが、特に不便していなかった。置き時計はほぼ使っていなくて、アラームより先に起きた際、iPhoneを探すより先に時間がわかるというくらいだった(≒より少ない動きで二度寝が可能≒覚醒度合いが低いまま速やかな二度寝が可能)。

どうでも良くてどうでも良くないことだが、自分は4月から社会人になっている。その前は某所の某精神病患者ばかり集まるシェアハウスで部屋に時計の無い生活をしていた。

その時、最も有意義な時間の使い方について考えていた。目の前に有限で無限な時間があったから。

多くの人間は自由な時間(=余暇)を欲しがる。なんでもできるような気がするし、非常にストレスフリーなように感じる。しかし実際のところ、それを何に使うかは個人によって全く異なる。

時間は金に変換できる。労働である。アルバイトなどで時給制の単純作業をしているとまさにその感覚が強い。逆に金で時間もある程度買える。交通費だとか、外食だとかはわかりやすいし、そもそもゲーセンでコインを入れるのだってゲームをする時間と場所を買っている。

で、結局(自分の力で生活しながら)"余暇を増やす"ことを最大限突き詰めると、学歴パワーを上げて良い会社に入るとかそういう感じになる。とにかく、"金を稼ぐために効率的に時間を使う"ことになる。

結局なんなんだお前らはという話で、同じ行動指針の上に目的と手段としてそれぞれ存在しているはずの"余暇"と"効率的に時間を使う"という2つは正反対だ。矛盾がある。

つまり、「時間が空いたので有意義に使おう!(Facebook風)」みたいに鼻息荒く意気込むのは最悪ということになる。最も贅沢で有意義な時間の使い方は、効率について一切考えず、効率的に金を稼ぐことはもちろん、効率的に遊ぶということも考えないことだという結論になった。

(これだけだとニートやそれに準ずる大学生が喜ぶだけなので、敢えて釘を刺しておくと、働いて金を得て働いた分の時間以上の余暇を生み出せるなら、働く意味は普通にある。今書いたのはそうして生み出した余暇の使い方についてであって、生まれた瞬間から存在する寿命の使い方ではない。)

社会人的には時計を買ったほうが良いという事実と、自分の"時間"に対する熟考から導かれた論理上の結論が、異なっている。そして思考の結果導かれた結論と、自分の感覚(常識に引っ張られている部分)的な判断も異なる。

要するに、時計を買うほうが少し優勢だ。

議論の原則

ある死刑囚が死刑制度に反対したとき、多くの人は反射的に「お前が言うな」と言いたくなるだろう。しかしながら、発言者の人格について言及するのは議論のご法度である。発言と発言者を関連付けてはならない。この原則が破られたとき、議論は議論でなくなってしまう。批判と非難を混同しないよう注意して、論駁の応酬を続けることで議題の答えに近付いていく。こういった議論の作法を一人でも多くの人間に身に付けさせることは、民主国家の義務教育に求められる役割のひとつである。

幸せになんてなりたくない

退屈を持て余して色々と人生について考えてみたが、自分は価値観として、いわゆる世間的な幸福というものを念頭に置いていなくて、そこを自覚した瞬間から少し開き直りが出てきた気がする。まあ人と合わせるのを諦めたということである。

世間的な幸せ、例えば、別に金持ちになりたいかというとそうでもない。車いらないしバイクも乗らないし家も何も別にいらないし、みんなが興味のあるものに大して興味が持てないし、ほしいものは少ないし、まあ普段の生活を振り返ると家賃食費光熱費ぐらいしか減ってない。たまに金があると娯楽品に回すけど、別にそれすら必要なくって、今は図書館あるしネットもあるし時間ならいくらでも潰せて、まあ金は無いよりはあればいいんだけど――貧困はつらいかもしれない――べつに結婚もしたくないし、誰かと懇ろになりたいとか、そういう願望もないし、そもそも幸せだと思うのは、自分で何か思いついた時とか人とだらだら喋ってるときとかそれくらいのもので、まあ都度都度なにか小さなイベントがおこって、そこでそこそこ楽しければ、大して客観的な意味での幸せになんてこだわりがないし、ならなくていい気がしている。そうなると、今がある程度自分にとって快適で幸せだというのを噛みしめることが大事なんだと思う。一番いいのは幸せボタンみたいなのを無限に押し続けるジャンクな生活だがそこの話はあまりにもあれなので割愛する。何が言いたいかというと、世間の価値観とズレていても、自分がたとえ逸脱した存在だとしても、それを認めて、それでも死にたくないのなら、どうしようもない自分を受け入れて進んでいくしかない。

根があまりにも暗いので、というのは幼少期から自覚していたが、人前では出さないけど毎日、体が痛いとか頭がいたいとか辛いとかだるいとか思っているし、何なら死にたいと思う日も多い、けど、別にそういうダウナーな自分も嫌いではないし、常にアッパーな状態でいたら逆に疲弊してすぐ死ぬと思うので、自分はこういう生き物なんだという一種の諦観は既にある。子供の頃はずっと、人に合わせようとして苦労していた。いまは人並みを諦めることによって気持ちが楽になってきた気がする。

とりあえず人間、心が壊れさえしなければたいていの状況で生きていけると思っているので、まあ目下の目標は30歳まで生き伸びたいということくらいかもしれない。そこから先は、そこから考える、とかでいいのか。

まあ、ぶっちゃけていうと、そもそもここでいう「人並み」という言葉も厳密性を欠いていて。

どこまでいっても「人並み」なんて自分の想像でしかないし、自分で自分を正しく認識することは理論的に不可能だという前提を踏まえると、そんな実態のない虚像に自分を合わせる、合わせよう、というのが不可能という結論が出たので、もう他人のやってること、さっぱり当てにならないし、自分の直観と身体感覚に委ねるしかないみたいなことを漠然と考えて――いや、正直まだ結論が見えない。他人をロールモデルにした生き方のほうが楽なのかもしれない。「生き伸びたい」というだけではあまりにも志、低すぎるだろうか。わからない。

面白いのは、自分は人については基本的にマイナス思考だが自分の将来についてはかなり楽観的で、というのも世界は本質的に不確定だと思っているので、個人が将来を予想したりするのは全部無意味だと思っているし、だから他人の言うこともあんまり聞かない。まあサイコロ降ってる感じが永遠に続いているという漠然としたイメージで今は生きているし、世界自体がそういう感じの規則性に従う限りは割と楽しんで生きられていくと思う。

出かけるとき

帰りのことを考えると憂鬱になる。ひとり夜道をコンビニへ歩く。街を照らす蛍光灯の明かりと雲間のあいだを縫うようにうっすらと星が出ていた。こんな夜は夜汽車に乗ってそのまま遠くの星に消えたくなるものだ。

ご縁について

小学5,6年のころ、テニススクールに通っていた。理由は思い出せないが、父のすすめだった気がする。野球以外の球技は嫌いじゃなかったのでそこそこ楽しくやっていたのだが、同年代の男子がいなかった。そこに新しく入会してきた男子がいれば、自然と話すようになっても不思議じゃないだろう。彼とはそこそこ仲良くなった思う。しかし、最後まで名前は知らないままだった。「お前」とか「あいつ」とかいえば彼を指したのだから、あえて知る必要もなかった。

基本的に人の相性だとかコネだとかを考えていない自分にとって、縁は巡り合わせで得られるものであり選択的に繋ぎ合わせるものではない。見知らぬ相手でも、何度か顔を突き合わせれば立ち話くらいはするだろう。そこに名刺も第三者の紹介も必要ない。基本はお互い笑顔でいること。もっとゆるい関係の創出を推奨したいと思う。「縁」という日本語はそれにピッタリだ。

テニススクール最後の日、彼と名前を教え合った。一週間で忘れた。再び会うこともなかった。それでも元気にやっていることを願うのは、人間のささやかな善性だと思う。