シルバーペーパー

秘密結社「シルバーペーパー」

人生がクソゲーとはよくいうけれど、そもそもそういう問題ではない。

特にゲームとかやっていると自分の頭の悪さを押し付けられているような気がして辛くなる。ゲームとか、ある程度時間に比例して上達するもの、昔は「ある程度までは努力すれば努力した分返ってくるから良い仕組みじゃん」と思っていたんだけど、一定水準に到達するまでに全員ある程度等価な時間的コストを支払わなければならないという構造に気づいた時点から最悪で、しかもそこから特化した方向にスキルの割り振りとか考えなくてはいけなくて最悪だ。

ある行為に費やした時間が別の勉強に転移できるような場合そこに投資する価値はあると思うのだが、例えばどういう分野にあっても「分野に特化した部分」と「分野に特化していない、ある程度同領域において汎用的な部分」の二種が存在するわけで、なにかする上で後者の能力だけ上げていくようなやり方では片手落ちなのだし、ということはこの時点でそもそも人生とは何を選択するかという時点から始まっているので、時間が経てば経つほど引き返せず、やはり最悪な気分になる。もう時間に依存するもの全て生理的に嫌だし、時間のない世界に行きたい、という話を知り合いにしたら全く理解されなかったので、宇宙人になった気分がした。

明かりを替えての後日譚

自室のライトを普通の一般家庭にあるような昼光色から暖色の電灯に替えて数日。モニタを使った作業をするにはデスクライト必須という感じ。手元が暗くて見づらい。ただ夜間過ごすときの雰囲気がとてもよくなった。夜中音楽を聴きながらゆったりと過ごす時間が楽しい。落ち着く空間づくりに照明は欠かせないのだろう。

深夜、都内をぶらぶら散歩してみて、ふと他人の家の窓の隙間から中を除くと、どこもかしこも青白くて驚く。日本人は割と青白い色の、くっきりした明るい照明が好きなのか、あるいは自分で買い替えるほど興味が無いのか分からない。

一方で、人の家に行くと、リビングは割合暖色に寄せている気がする。やはり一家団欒の場であるという点と、あとは調理した料理が美味しそうにみえるからだろうか。我が家もリビングだけは暖色である。

さて次は間接照明が欲しいのだけど、hueみたいな間接照明デバイス、国外ではこれからどんどん流行っていくんだろうけど、間接照明に対する知名度が比較的低い日本で流行るのだろうかは疑問が残る。まだまだ手を出すには早いという気がする。

5年後ぐらいにリーズナブルな値段で量産化されたりしないだろうか。少なくともいまは手を出せない値段だ。個人的には値段が1/10くらいになったら手を出してみたいが、少し現時点では(お試しで使うには)高すぎて手が出ない。

名前を呼んではいけないあの活動

使用者と被用者の非対称な力関係の中に放り込まれてから三ヶ月が経過する。始まる前から馬鹿らしいと思っていた年中行事だが、実際に体験してみると馬鹿らしさで気が狂いそうになる。一生理解できないであろう自分という人間の性格や行動特性を観察して、実際に入ってみなければ決して分からないであろう会社の空気や社員の働き方を聴取し、自分に合う“かも”しれない企業に幾度もアプローチをかける、という一連の作業に凄まじい労力をかけて取り組まなければならない。無駄な労力は徹底的に省いてアニメを見ていたい自分にとっては、とにかく苦しい。受験勉強でもここまでは苦しくなかったと思う。

日頃もてはやされるトライ&エラーという考え方は、こと日本の労働市場では全く受け入れられない。一度入ってみて合わなかったら辞めるor辞めさせるという選択肢が終身雇用を前提とするこの国の労働法規ではなかなか認められないので、互いのことをよく知らないまま結婚するがごとき無謀な試みが新卒一括採用の名のもと毎年行われ、その犠牲者が失業率と早期離職率を押し上げていく。一度でもレールから外れれば人生終わり、なんてこともないのだが、一度もレールから外れずに生きてきた人間にはそう思えない。そういう視点がない。かくして戦線の熱は上がる。

「ポテンシャル採用」という無能で無芸な人間にとっては一見都合よく見えるシステムがどうも欺瞞的に見えるのは、非定量的な判断基準(定性的とでも言おうか)をもってふるいにかけられることに納得できない部分が大きいからだと思う。自分のからっぽさを取り繕うスキルの向上が、よりからっぽさを増進させているような気がしてならない。経団連はトチ狂った倫理憲章を定めるよりも、くじ引きで選考するローコストな採用形式を推奨すべきじゃないか。現状では意外と理に適っていると思う。

「どこに入ってもやることは同じ」「新人が何もできないことなんて百も承知」という父の言葉が延々と耳にこだまする。

若廃孤独 御社ひとつとて骨を拾わず

部屋の明かり

友達は白色蛍光のほうが好きだと言っていたが、個人的には暖色のほうが好きだ。ということで今日近所に買い出しに行って自室の明かりを暖色のものに変えてみた。最初は思ったほどの違いはなかったがだんだん慣れてくると赤いなという当たり前の感想を抱いた。次に私はその暖色の下でコンピュータを操作してみたが、予想していたより全体的に明るさがワントーン下がったような形になり、文字の見づらさが上がった。さいわいデスクライトが有るためその点はあまり問題がなかったが、色味が少し変わって見えるので神経質な人にとっては気に障るかもしれない。実際少し作業をする際には気に障る。

リラックスできる程度の度合いは通常の昼白色などに比べて体感で高いと思われる。普段リビングで使われているものと同じものにした。3000円程度の投資。ここ数年のストレスが解消できたので個人的には満足している。本当に効果があるのかはしばらく経過して追って報告したい。

失敗する共同計画の建て方、あるいはその防ぎ方について

失敗する共同計画の建て方

こうだ:

  1. 自分一人ではプロトタイプすら作ることが出来ない規模のアイディアを出す

  2. 意思決定プロセスに関わらないレベルの人間を企画段階でたくさん集める

  3. 何も起こさないまま全員のモチベーションが下がり終わる

友達となにかやろうとして、失敗するみたいなことが多いので自戒を込めて。一人でも最悪形にできるようなものを作って、もう一人に共有するというところを発端にしないと、なかなか何かを共同で作り上げたりということは難しいように思う。特に考える程度の高い人ほどリスクにたいして恐れる傾向にあり、作業の途中で先が見えない状態に対してストレスとなり手を動かせず詰まってしまうようだ。

何かを企画するというとき、多くの人はそこの新規性を重視するようだが、実際にはその企画を行動に起こせるかどうかが企画の第一要件であろう。実行のない企画はむなしい。

よい企画には生贄が必要

何かを企画するというのは想像よりも難しくて、名前と概要だけ作って終わり、というような進み方は一般的にしない。名前と概要だけで自分の労力を無償で裂こうという人間はいないからだ。企画には常に痛みが伴う。痛みとは最初の漕ぎ出しを支えるイニシャルコストである。企画には常に痛みを引き受ける人間が必要で、それは企画者当人である必要がある。

だから最悪自分一人でもやる、という意識がないといけなくて、こういうものという方向性を見える形で打ち出さないと頭のいい人を動かすのは難しい。昔は自分一人でしか作業することがなかったので馬鹿にしていたが、ペーパープロトタイピングとか大事なのかもしれない。

お金を使って人を動かすのは簡単だと思うけど、無償で労力を割きたくないレベルのことをして幸せになれるのだろうか? わからない。もしかしたら多くの人にとっては金銭的なリターンでそこを補填できるのかも知れないし、やはりどこまでいってもそこを満たすのは不可能なのかもしれない。いずれにしても重要なのは「無償で」手伝いたくなるような企画は、大金を払って人を集めないと動かせないものよりもそれなりに価値がある可能性が高いということだ。

自分一人である程度計画を立ててみて、最悪一人でも動けるような状態にまでもいっていって、興味をもった誰かがいたらそこにジョインしてもらうというのが一番コストが少ない気がする。ただこのやり方が常に正しいとは言えない。そう考えると、いい企画者になるというのは実はものすごく難しいのだろう。

要約すると企画というのは自分一人でやるというところを前提として、人に手伝ってもらうという意識で立てるのが一番いい気がする。

ひとにやさしく

自分にとっては不快なことでも、他人がそれを「もてなし」として行っている場合に関してはその点を割り引いて理解する必要がある。これを攻撃されていると感じると病的な状態となり、攻撃されているとまで感じなくとも相手に善意を感じ取れない場合はいきぐるしい人生を歩くことになりそうだ。純然たる好意に対して触れた時、自分が不快になったとしても、それは自分の情緒的な理解と混同するべきではないと思う。

私を含めた通俗的にコミュ障とよばれるような層にとって、そういう人との会話は邪魔なものだとして遠ざけられがちであるが、一方で、そういう人をもてなすという向こうの思慮に対しては、たとえ自分が喜ばしく思わなくともそういったものを提供してくれようとしたことに対して、幾ばくかの感謝を感じるべきなのかもしれない。

個人的な話でいうと、対人コミュニケーションでの感情に対するプライオリティが低いことによって、しばしば口頭での会話が抑揚のないトーンに陥りがちであるというのと、理路整然とした会話以外が冗長に感じてしまうという欠点を内面的に抱えており、また特に親しい人間を除いて、ここの人の好き嫌いのフィルタリングが恐らく平均水準より強く働き、これはおそらく自分が(ことポジティブな感情に対して選択的に)共感するという能力を欠くことに起因していると考えられる。その点で、人を喜ばせたり、人に喜ばされたりという行為を受容したり、そういう部分が自分には致命的にかけている。

そういったものの考え方でいくと、他人を情緒的に充足させられる執事喫茶やらメイドカフェといったものはもう少し考えたほうがよくて、多分いまの自分にかけているのがそこら辺だと思う。このあいだとある執事喫茶について書かれたブログ記事を読んでいたら、非常に重厚な接客がされるということで、なるほど、これほどまでに本格的なもてなしというのを受けたり逆に与えたりというのは自分に経験がなく、それなりに面白い体験になるのではないかと思った。

自分がそういった厚遇を第三者に受けた場合、それは果たして嬉しいのだろうか、あるいは苦手なのか、分からないが、よく考えてみると世の中で行われているコミュニケーションというのは、そもそもが私が誤解しているように「やっかいなもの」「不快なもの」「冗長なもの」ではなくて「相手を喜ばせようとして気を使った会話」であるという点に気付かされている。私は美容師が嫌いであり、美容師とのコミュニケーションは私からすれば冗長で、会話は不快でしかないが、一方で提供する側としては一種のホスピタリティである。

先方がこれを好意として行う限り、私の側でそれを割り引いて考えないのは礼儀に欠けるように思う。