シルバーペーパー

秘密結社「シルバーペーパー」

「涼宮ハルヒ」という少女――私が、生きて死ぬということ――

 

オタクの変遷 

――私は私か?という問いは実に哲学的であるが、私はオタクか?という問いもそれに類するものであるように思う。そもそも自分がオタクであるか、あるいは誰それがオタクであるかの定義は誰が知っているのだろう。げんしけん斑目の有名なセリフで「オタクはなりたくなったものじゃないからやめたくてもやめられない」というものがあるが私達――しかしながら私は私がオタクであることを懐疑する――はいつの間にか別の何かに変質してしまっているのだろうか。実に厄介な問題だ。だが、ここではオタク論については深く立ち入ることはしない。

 

 複雑な問題はさておき、アニメを見たりマンガやライトノベルを読む、ということが昔に比べて一般大衆に浸透し一部の特殊なオタクだけがしていた秘事で無くなっていることは誰もが肌で感じていることだろう。リアルの生活が充足していて人生楽しくて仕方なさそうな男子学生と、それこそ男に不自由しないと言った顔をしている女子大生がアニメトークで盛り上がっているところに出くわしたり、かつてはオタクたちが我が庭のように大きな顔をして(それこそ滑稽だが)闊歩していた秋葉原には中高生の集団が蔓延っている。良い悪いはともかくとして、オタクというものが今と昔では変質したのは明確だ。それはオタク文化がそれだけ魅力に溢れているとも考えられるが、きっかけはいつだったのだろうか?私は2006年前後が最も有力なターニングポイントであると考える。そうそれは、TVアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』が放映された年だ。

涼宮ハルヒの憂鬱 」という事件

 「涼宮ハルヒの憂鬱」シリーズといえば谷川流氏がスニーカー文庫より2003年から刊行している作品で、文武両道破天荒美少女、天上天下唯我独尊にしてSOS団の御団長であらせられる涼宮ハルヒさんを取り巻く超日常世界を主人公キョンの軽妙な語り口に乗せて描いた非日常SF超傑作であるが、この作品のタイトルを聞いたことがないという人間はまさかこの日本においていないだろう。2011年時で累計800万部以上を売り上げ世界15カ国で発売されており、京都アニメーション制作のTVアニメのEDである『ハレ晴レユカイ』のダンスは、世界中で異常ともいえる大ブームを起こした。

 当然のことだが、私も当時涼宮ハルヒの憂鬱のアニメを見て原作を読んだ。それは、まさに青天の霹靂であったといえる。小学生の頃から「Missing」や「キノの旅」「灼眼のシャナ」(シャナ――彼女で精通したことは言うまでもない)などいわゆるライトノベル――当時はまだジュブナイルという名称が少しながら残っていた――を読んでいた私であったが、その後中学に入り、塾帰りに友人と毎日のように近くの書店でその手の本を眺め回して色々な話をした。そのとき出会ったのが、「涼宮ハルヒの憂鬱」シリーズである(後にアニメも見た)。それが私の人生の岐路であったことは言うまでもない。あのときに、私は私をオタクと定義し私がオタクであるという確信を持ったと今では思っている。

 

「萌えよ萌え、いわゆる一つの萌え要素。」

 宇宙人(長門有希)、未来人(朝比奈みくる)、超能力者(古泉一樹)が一同に介し、その中心にいるのは古泉一樹的なタームを借りるならば「神」であらせられる団長こと「涼宮ハルヒ」さんであり、そこに寄り添うように何故か存在する団員その一こと普遍的一般人「キョン」。そしてそこで起こる奇妙にして鮮烈な事件の数々を目の当たりにしたときは、ただ夢中になった。ただひたすらにその世界に没頭した。そして自分はどうしてこの世界に生まれてきたのだろうと思った。それが私、竜崎大に中学生の時に起こった事件だった。

 あのときから、私は恋をしている――言うまでもなく彼女に。

 最近はあまり使われなくなった言葉だが私は確かに「涼宮ハルヒ」さんに”萌え”た。いや、むしろ何かの思いが心に”萌え”た。どうしてこんなに可愛いんだどうしてこんなに完璧なんだどうしてこんなにおもしろいことを考えているんだ彼女のことが知りたい、そういった衝動が少なかったお小遣いをライトノベルにつぎ込むことを制御するはずもなかった。そしてその思いは胸の奥底に突き刺さり一人のサッカー少年を変身させた。

なぜこんなにも恋い焦がれ続けるのか

 それから時は過ぎ去り8年の歳月が私を何か変えたかといえば、真面目で将来に希望を持った少年がよだれを垂らし己のセクスを厭らしく擦るだけの大きなお友達になった程度の瑣末な出来事しかない現実がある。それは置いておくとして、今になって思ってみると当時の私はなぜあそこまで――いまもそうだが――「涼宮ハルヒ」さんに恋い焦がれたのだろうか。毎期放送されるアニメには消費される萌えキャラなんて掃いて捨てるほど居るし、そこから俺の嫁も一夫多妻制を許さない日本の法律に抗うかのように毎年増え続けている。しかし、彼女たちと「涼宮ハルヒ」さんとの間には明確に違いがある。それは何であるのだろうか、と私は考えた。そして見つけたのは「涼宮ハルヒ」という少女そのもの、存在そのものに恋をしていたのだ、という事実だ。

涼宮ハルヒ」という少女

「それまで、あたしは自分がどこか特別な人間のように思っていた。家族といるのも楽しかったし、なにより自分の通う自分のクラスは世界のどこよりも面白い人間が集まっていると思っていたのよ。でも、そうじゃないんだって、その時気付いた。(中略)そう気付いたとき、あたしは急にあたしの周りの世界が色あせたみたいに感じた。」

 

 彼女が破天荒な行動をするようになるきっかけであり、野球場であまりにも多くの人間を目撃し、この世界において自分がちっぽけな存在だと感じた、ということを説明した印象的な場面である。これは「涼宮ハルヒの憂鬱」において、涼宮ハルヒさん本人が口にした言葉である。彼女は退屈していたのだ。もう一つ、引用しよう。

 「あんたは、つまんない世界にうんざりしていたんじゃないの?特別なことが何も起こらない、普通の世界なんて、もっと面白いことが起きてほしいと思わなかったの?」

 彼女の考えを明確に述べているシーンはあまり多くない。何しろキョンの一人称視点であり、また涼宮ハルヒという人間は何を考えているのか理解らない風に描かれているからだ。しかしながら、これらのセリフからにじみ出る彼女の人間性というのは私に何かしらのシンパシーを与えた。

 彼女の思想、哲学、そういったものが凝縮されたこれらのセリフは、胸に響いた。私は毎日が退屈だと思っていたしそれに疑問を持たずにただ何も考えずに日々を過ごしていた。そこに不意に池に一つ、石ころが投げ入れられたかのように何かが変わった。変わったと言っても私のライフスタイルが変わったわけではなく、彼女に自分を投影した、とでもいうのだろうか。私は彼女という人間を自分と同一視することで、この世界に生きる意味を見出した。それは「神」になった、という馬鹿げたことではなく、彼女に恋をし彼女を思う存在として生きるということで、つまりは退屈な日常からの逃避先として彼女を選んだのだ。

 それが、私が私をオタクとして定義する根本であり、恋だ。

愛、アムール

 あるいは、「涼宮ハルヒ」さんは光なのかもしれない。自分が非日常的な存在でありながらそれを認知することが出来ない彼女は、徐々に日常性に帰っていく。彼女はとても理性的だからそれは当然だ。しかし救いはある。なぜなら日常というのは、得てして非日常的であることが多いからだ。要は、物は見方によるのだ。彼女の様に思いもがくのはモラトリアムにおいてよく見受けられる症状だと思う。しかしながら、彼女が獲得していく日常――あるいは非日常――の記録は私達の希望だ。それを大切にいつまでも持ち続けている私は、これからもオタクであり続けるのだろうと思っている。

 

竜崎大