戦没者慰霊に適さない靖国神社
戦没者を「英霊」として敬い奉ることは、戦争の犯罪性を見誤る原因になる。彼らは未曾有の大戦火にくべられた犠牲者以外の何者でもない。戦没者の大多数は、始めから勝ち目がないと分かり切った作戦に有無を言わさず投入され、敵と銃火を交えて対峙することすら叶わず、飢餓と疫病に苦しみながら無念のうちに死んでいった。国家の命令によって無為な死を強要された人々を、後世の国家が神格化して祭り上げるのはもはや趣味の悪いジョークである。
靖国の合祀対象は時の政府と宮司の恣意的な選考基準*1によって選ばれるので、慰霊施設としての公正性・包括性すら大変に怪しいものだが、未だに多くの人々に靖国が支持されていることは、政府の思想統制の一翼を担っていたことに異論のない靖国神社が戦後歴史的に清算されることなく存続してしまった結果によるものだろう。戦中の国民総動員で中心的な役割を果たしたことについて反省するどころか、今なお戦争行為を正当化しようとする思想*2を持った特定宗教の施設を用いて戦没者を慰霊しようとする試みに、筆者は賛同できない。
日本では毎年終戦記念日に天皇と三権の長の臨席のもとで政府主催の全国戦没者追悼式が行われる。国家的な慰霊式典としては十分なものである。宗教色を排した無名戦士の墓*3であれば千鳥ヶ淵の戦没者墓苑があり、終戦記念日には総理大臣が必ず参拝している。海外の公人も日本の戦没者慰霊の際にはここを訪れる。戦後日本の公式慰霊はこの二つを中心に行われてきたが、これに一体何の不足があろうか。国の指導者が靖国に参じる意味を、今一度考え直す必要がある。
呵呵大笑