シルバーペーパー

秘密結社「シルバーペーパー」

靖国神社を考える

戦没者を「英霊」として敬い奉ることが戦争の犯罪性を見誤り、ひいては趣味の悪いジョークというのはそれが個人的主張だとしても受け入れがたいことである。確かに戦没者は「犠牲者」である。だが抑々「英霊」とは戦死者を敬うための呼称であり、それは「戦争を肯定的に捉えた戦争賛美」ではない。これは日本がもともと持っている神道的なモノの考え方を理解する必要がある。神道において、死者は”鎮められる”ものであり、また参拝は、死者を「英雄」として祀り上げる行為とは全く違い、御霊が安らかに眠ることを祈る行為である。「英霊」=「英雄的神格化」=「戦争賛美」という図式は短絡的すぎないだろうか。あなたが祖先のお墓に手を合わせることを考えて欲しい。戦時下に「國體」という非宗教性を持った宗教により神道が捻じ曲げられてしまった事実はあるが、それを現在の日本人が継承してはいない。「英霊」を敬い奉ることはとても自然である。

さて、確かに靖国神社は「國體」――つまり戦時中における思想統制――の象徴である。だが、戦没者たちが口にした「靖国で会おう」とは一体なんだろうか、ということを考えるのが大切なところだ。そもそもの「靖国で会おう」は当時の政府のプロパガンダだ。それは死を尊いことだという擦り込みで多くの戦没者生み出した言葉である。だがそれは戦時中の話だ。敗戦し、戦争犯罪者が裁かれ、新たな時代を迎えた。当時と今の「靖国で会おう」は同等の意味ではない。戦没者が言った「靖国で会おう」は言霊となり、残された人々にとっては彼らとの約束なのだろう。ただ、戦争を体験していない人々(私も含め)にとってはそれが持っている意味を本当に理解することは出来ない。これは、靖国神社が遺骨を埋葬している場ではないという特殊性も絡んでくるが、「御霊を祀る」場所、つまり戦没者の思いを知る場所なのだ。*1これが「国安かれ」ではないか。だが、それとは別に現状を見つめる必要があるだろう。

現在の靖国神社は右翼のメッカであり街宣車が騒ぎまわり、悪趣味なコスプレを披露する場になりさがっている。訳の分からない団体が闊歩している。まさに戦争賛美の象徴、ヒトラーの墓と言われても仕方がないありさまだと言えるだろう。「国安かれ」と思っている人たちがどれだけいるか。*2これは大きな問題だ。このまま靖国神社が変質していくのは嘆かわしいことだ。

ここまで読まれた方は、「じゃあ靖国参拝が必要だと言うのか」と思われるかもしれないが、私は靖国が大々的に取り上げられることそのものがおかしいと思う。靖国は、戦争の記憶だ。それは、ひっそりと佇んでいればよい。御霊を祀る施設としてだけ、静かに有ればよいと思う。*3来年で終戦から70年、今は「戦後」だろうか。「戦後」で在り続けることは、日本は未だに新たしい時代を迎えていないということなのではないか。戦争を実際に体験した人たちはもうすぐ居なくなるだろう。戦争を知らない「戦後」の我々が成すべきことは、過ちを繰り返さないことただそれだけだ。それなのに、おかしなことを議論するだけで本意をどこかに忘れてきているように思える。

竜崎大

*1:海外であれば宗教色を排した墓地が主流で、アメリカであればアーリントン国立墓地、日本であれば千鳥ヶ淵戦没者墓苑があるが、そもそもの性質が違う。

*2:つまり参拝者がどのような思いを持つかで、靖国が持つ意味は変わるといえる。

*3:首相の靖国参拝問題については割愛する。そのときには、また中韓を批判する必要があるだろう。