シルバーペーパー

秘密結社「シルバーペーパー」

芸術家・批評家に共通する作品批評の非大衆性の論理

映画やコミック、音楽など、どんな媒体を問わずそれらの道にある程度精通してきた人々に普遍的に見られる特質のようなものがある。美術家、ミュージシャンや作家と言った人々に共通して見られる類の変態的嗜好、特異な感性は何によって生まれるか。対する、いわゆる平均的な人々が一見して魅力を感じるものを侮蔑し、一方で凡人がなんの魅力も見出さないものに執拗に執着するという独特の気質はなぜ発生するのか。その答えを導く鍵となるのが、作品に対する受容の感覚の変化である。

本論に移る前に、一般的な事象として見られる芸術家・評論家一般に跋扈する共通した非大衆的な作品への傾倒を指摘しておきたい。

私は最初のころ、これら非大衆性への傾倒をその人が所属する母集団の変化と、個々の集団の価値観に基づいた価値観形成の結果であると見なしていた。いわゆる「朱に交われば赤くなる」という諺に同じ原理である。所属する集団を形成する価値観の土台に基づいて変化した(無自覚にさせられた)という論を支持してきたし、あるいはカウンターカルチャーの原理に従って、それらのカルチャー自体に根ざす本義的な反社会的性質に結びつけてこれを語るものもいるであろう。

しかしながら、最近私はこれに異議を唱えたくなった。その種の独特の感性をもつ人々が一様に「尖った」方向へと同じように傾くからである。尖っているという表現がふさわしいと考える理由は、そういった人々が作品を評価するときの姿勢は包括的ではなくより個別事象的であるからである。一般的な大衆が全体の印象に基づいて価値を勘定するのに対して、一部の特化した感性を持つ特殊な人々は個別の要素に対してそれぞれ価値を推定し厳格に評価しようとする傾向にある。そのような人々が一般の人々と作品に対する評価が異なるのは当たり前であって、彼らの姿勢は反大衆的ではなく非大衆的であると呼ぶべきであろう。

ある分野に詳しくなるにつれ、全体の整合性や包括的な感性への固執を失う。全体としての物語性を帯びた意味のようなものは奪われ、ある意味ではニュートラルな視点から個々の作品構成要素単位では正しい価値推定が出来るが、その代償として全体に対する統合的な印象というものは比較的ないがしろにされ、それによって非大衆的なもの、個別の要素において飛び抜けたものを求めるようになるように思う。

私はこれを特定分野に対するカテゴライズ能力が特化することに起因する代償であり、認知の歪みのようなものではないかと推測しているが、今のところよくわからない。