シルバーペーパー

秘密結社「シルバーペーパー」

宇宙について

この宇宙と、その観測者としての人類(以下、「人間」「我々」「俺」などと呼称するが、同義である)が存在する理由として、自分がいま最も有力視している考え方を、ここに記しておく。

この文章は、現代物理学的な理論でもなく、量子力学的な理論でもなく、或いは文学的な思想でもなく、純粋に形而上学的な考察であることをここに前置きする。

宇宙の発生と、その正当性について

宇宙の発生は、現代の物理学においては、ビッグバン(→Wikipedia)によるものだという説が定説であり、ありとあらゆる理論の根幹になっているが、自分はこの考え方を「そのまま」宇宙の存在理由に転用することには、賛同できかねる。

複雑な事象の複合体として宇宙を捉えて、それをミクロな視点で分解していくと原子或いは量子力学的粒子まで「拡大」して考えることが出来る点については同意する。また、ビッグバン的現象によって、最初に重い原子が発生して、徐々に多様性を増して行った点についても同意する。生物の生物学的進化についても、同様な考え方が適用できるだろう。

つまり、結論として、一般相対性理論は、我々の観測対象の宇宙という「1つの系」においては、正しい理論であると言える。

ただし、以下で述べる情報理論的観測者効果によって、別の系においては「無限の宇宙」が存在することが示唆されるので、逆説的に、我々の宇宙も無限であることが否定出来ない。故に、自分は宇宙に始まりはなく、終わりもなく、永久でもなく、観測行為によって成り立っていると考える。

観測者の必要性

あるが存在するためには、その系を観測する者が必要である。

また、これは現代の物理学的観点においても、概ね支持されていると言うことが出来るだろう。物体を観測するためには、何らかの媒体を介するか、もしくは粒子を照射する必要がある。物理学の一分野を例に挙げて、光学的に考えると、顕微鏡で物体を観測しようと思うと、「光子をあてる」ことが必要になり、その光子によってその対象が収束するので、その物質がその系において存在する根拠となりうる。これを、「物理学的観測者効果」とカテゴライズしておくことにする。

一方で、物理学ではなく、量子力学的観点では、この「物理学的観測者効果」は、誤りである。量子力学的には、観測者及び観測という行為そのものについても量子力学的に定義しなければならないので、物理学的な論理は適用出来ない。量子力学における観測者効果は、あくまで量子力学的観測者効果」である。これは、観測者効果を語る上で、頻繁に誤用される有名な例である(と、されている。自分は量子力学の研究者ではないので、この点の詳細に関してはよく分からない)。

もう1つ定義出来るものとしては、情報理論的観測者効果」が挙げられる。これは、ある系の設計者(=神、後述)が、その系について観測することでその系が成り立つという効果で、物理学的な言葉で言い換えると「高次元の物質が低次元の物質を観測することによって発生する効果」と言うことが出来る。

観測者効果については、Wikipediaの記事が平易で分かりやすい。(→観察者効果 - Wikipedia

人間の存在意義

あるは、ただそこに存在するのではなく、常に入力と出力がなければ成り立たない。これは、「演算」という表現と等価である。

よって、我々の宇宙が存在するためには、演算をする必要があり、そのためのミクロ的なパーツとして人間が存在する必要があると言える。

この点に関する自分の考え方は、情報工学におけるフォン・ノイマンアーキテクチャ(→Wikipedia)の思想からかなりの影響を受けている。

我々の宇宙の未来

自分は、我々の宇宙は、無限であると考える。始まりもなく、終わりもなく、永久でもなく、あくまで「無限」である。

これは、物理学的な観点から見ると、定常宇宙論(→Wikipedia)に近似する。

ただし、情報工学に考えると、系は無限に作成することができ、また低次元の存在は高次元の存在を観測することが出来ないので、我々の宇宙も、同様に無限であると考えることが出来る。よって、前段落で書いたような物理学的定常宇宙論が自分の考えに完全に一致することにはならない。

一方で、観測者にとっては、事象の地平面(→Wikipedia)によって情報伝達に限界が生じるので、我々の宇宙の終焉を我々自身が観測することは、現代物理学的に言うと不可能である。

宇宙の終焉については、この文章も読んでほしい。(→Wikipedia

神は存在するのか

俗世における人格としての自分は、「科学的無宗教者」である。そして、日本の民族伝承としての神道(つまり神道も宗教としては否定している)を「尊重」している。これは、単純に自分が心理的にアニミズムが好きだというだけで、神道の神格そのものを崇拝しているわけではないということである。

しかし、無宗教であるところの自分が、無神論であるかと問われると、ある意味ではそうとは言えない。

この文章で説明した通り、ある系は、その系の観測者が存在するから成り立つものであり、そこで神について考えてみると、というのは、その系の「設計者」或いは「執筆者」がそれに該当するのではないかと推察出来る。

俺と俺の思想について

以上のことから、自分は端的に説明すると、形而上学的観念論者であると言うことが出来る。俗世においては、俺という人格は、哲学的独我論であると言った方が正確である。

そういう意味では、カントの思想、或いは『純粋理性批判』については、それを支持する立場にある。自分は「系」の普遍性を主張しているだけであって、物質の存在そのものを否定するわけではないことからも、カントの思想とは近いものがあると言えるだろう。

よって、広義の哲学的認識論については、「人間が知覚出来る限界は存在するのか」という命題が存在するという点そのものによって、自分はその成立を否定するものである。何故ならば、それらはカント的な用語で言うと、アプリオリなものであって、認識論という系のその系自身の中の枠組みで語るべきものではないからだ。

また、同様に、不可知論や、唯物論なども、自分の思想においては成立そのものが否定される。

※補足:少々調べてみた所、恐らく近現代の知識人でいうとデイヴィッド・チャーマーズマックス・シュティルナーが俺に近いようだ。

※補足2:もう少し調べてみた所、俺の考えには無限後退(→Wikipedia)を(哲学的な立場として)認める要素も含まれている可能性が高い。


要するに、人間は考える葦なのではなく、人間が考えるからその人間の中で葦が存在するのである。