シルバーペーパー

秘密結社「シルバーペーパー」

電子書籍の未来、あるいはアナログ媒体のもつ潜在的なプロプライエタリ性

そういえば、ちょっと昔、まだスマートフォンが流行っていなかった時代、わたしが初期型PSPを振りかざしていた時代、あの頃私にとってPSPは最高の読書ツールだった。まだ電子書籍が世間でおおっぴらに話題になるということもなかったし、もっとも、一部のコアでアングラな層が自炊という文化を徐々に広めていった時期だったかもしれない。

個人的な話を挟むと、昔から私は、いわゆる活字中毒で、デジタルの時代に生まれたこともあって子供のころから電子書籍青空文庫にじかに触れていた。そのあと、ライトノベルにはまっていた頃もあって、そのときは毎日平均して2冊以上読みふけっていた。多い日には6冊くらい読んでいた。今から考えると暇人の極地である。 今のネット中毒とひとくくりにされる層は実はもっと細かく分解されるべきだと思っていて、その中にはコミュニケーション中毒者であったり、あとは私のような活字中毒者も入るだろう。ブログだろうがなんだろうが文字を読んでいると落ち着く。生まれつきそういう仕様らしい。

さて、当時の私は自炊環境(つまり書籍をスキャンしデジタルデータ化するための環境)に恵まれていなかったが、よくネット上の文章や青空文庫を画像データに変換して持ち歩いていたものだった。ファームウェアの改造が必要だったので、導入自体は困難なようだったが、私はあの時すでに電子書籍の一端に触れていた。一日かけて変換したデータをPSPに入れて縦にもってLボタンとRボタンでページをめくる。e-Inkなんてなくてもディスプレイを見て疲れたことなんてなったし、スリープから復帰したら読んだ箇所に戻れるし、紙の本に比べて不便だと思うことはなかった。

そんなことも忘れて数年、久しぶりにKindleを触っていて、これは快適な読書リーダーだと思った。これはちょうどあのPSPの頃を思い出す。そう、この大きさは文庫本のような書籍にちょうどよいのだ。それにしても、当時と今で違うのはやはりワンクリックで購入できるというその即時性だろう。ダウンロードして画像に変換して……という手間を踏まずとも、Kindleはお金さえ払えば簡単に書籍を提供してくれる。Amazonは衝動性に訴えかけるようなマーケティングがうまい。午前中に注文すればその日の夜には確実に届く、といわれると、人はつい焦って買ってしまう。バーゲンセールと同じ理屈だ。コレクション、収集欲に訴えかけるような方法論はすたれていって、そのうち1-clickで買えるという仕組みを生かした衝動性を重視したマーケティングがこれから行われていくのではないかと思っていたら、本当にそういう時代になってしまった。本をとりあえず買っておいて、気が向いたら買う、というような従来のストック型の購入の仕方ではなくて、必要に応じて即座に手に入れる、というふうに消費者行動が変化しはじめているのではないか。

一方で、ふとこんなことを思った。電子書籍は書籍の購入量を減らしていくのではないか。電子書籍は書籍の購入量を減らす、いや、というよりもむしろ今までが多すぎたのではないか。

紙の書籍に対して、定量的にどの程度まで読み進めていたのか思い出せる電子書籍。当然、読み手のほうにも積読に対する意識が変わる。どの本をどのくらい未読のまま放置しているのかが、電子書籍アプリの中では一か所にまとまっている。電子書籍とは、無制限に解放された無限の本棚のなかから、閲覧する権限だけを購入しているようなものだ。近所の図書館で予約待ちをする手間を買っているような感覚。どうも私にはそういう感覚に陥る。個人の本棚というものはなくなっていき、全体のひとつの巨大な書籍のデータベースから本を取り出している。所有の感覚はそこにはない。閲覧する権利があるのみだ。あらゆる意味で、Kindleは不自由だ。それは私達に決して所有することを許さない。

電子書籍について、やれ賛成だの反対だのというような類の論争が、2015年にもなって未だになされているのには、いいかげん驚かされるものだ。この手の議論、すでに方々で議論しつくされているうえに、そもそも論点として全く興味がわかないのでどうでもよくて、賛成の人間がいくらいようが反対の人間がいくらいようが電子書籍が今後普及していくのはあまりにも自明だし、紙の本が消えてなくなろうがその時はその時だろう。ひとつ言いたいことがあるとすれば、電子書籍が叩かれているのはプラットフォームとしての「電子書籍」およびそれを利用するための周辺機器といったものにまつわる問題と、本質的な電子書籍という概念そのものに対しての考えは明確に分けるべきだということである。

複製コストの低下を主軸にして考えるとき、興味深い事実がある。書籍、というアナログな物体、あるいはその周辺にある図書館や古書店というビジネスが、書籍が本来潜在的に持っていた物質的なプロプライエタリ性に依拠していたという事実が浮き上がる。複製不可能であるという前提、有限であるという過程、紙媒体という物理的な枷によって図書館や古書店といったようなサービスが成り立っていたのだ。これは興味深い事実ではないか。

しかしせっかくその複製への枷を外すことのできる電子書籍という媒体でありながら、私達は未だにその自由を享受できていない。音楽メディアも同じ問題を抱えている。今まで書籍というものが金銭的なインセンティブによって導かれていて、それが失われてきつつある。アマチュアのイラストレーションが大衆のものになったように、書籍や音楽もインディーズによって導かれていくのだろうか。

著者に十分な金銭的報酬を与えながら、複製を自由にする、というこの相反するこの問題を解決する方法はないだろうか。私が最近ぼんやりと考えているのは、一次データの単価を著しく高く設定し、二次的な頒布に関しては一切を規制せず、自由に任せるということである。著者に十分な報酬が手に入るし、オリジナルの値段以上になることは起きないし、最初に買った人間は定価以下で販売することで利益を得ることができる。もちろんどこかの段階で無料でばら撒かれることになるのだから、そうなると購入者が現れるのかどうなのか怪しいものである。そこら辺はもう少し念入りに考える必要はあると思うのだが。分からない、やはりどこかで破綻する気がする。考えるのが面倒くさくなってきたのでここで筆を置こう。