シルバーペーパー

秘密結社「シルバーペーパー」

改札でエラーで詰まれば後ろの人間に罵倒されるような世界。

  

 

 口元にミートソースの跡を残したまま赤子のような笑顔で背骨が曲がらなくなった痴呆症の老人がぬいぐるみを抱いたまま乳母車を傍らに道端に腰掛けて空を見上げていて、プラットフォームでは知的障害者が大声で点字ブロックの数を数えながら喚き立てている、そんな彼らを背景にしながらサラリーマンは心底無関心だというような風に耳にイヤホンをしたまま電車に乗っていったしそばを通りかかった乳児を抱えた母親も早足で無視していた。少し傘がぶつかっただけで老人に舌打ちされ改札でPASMOの残額が切れてエラーで詰まれば後ろの人間に罵倒されるような社会の中でこれだけ自己主張的に生きていても赦されているという事実を前にして、障害者であればこそ初めて自由に生きる特権を振りかざせる社会なのかもしれない、みたいなことを考えている。精神障害者相手に不謹慎かもしれないが実際よく目がいくし無意識的に観察しているが道端を歩いていそうなクリエイター気取りの二十台そこそこの若者よりもはるかに独創的に生きていると思うし見ていて飽きない。とはいえ、人前で口にすることのできるようなあまり行儀の良い趣味とは言えないのは事実だが、それをわざわざ口にするような相手もいないから何も問題がない。

 

世の中に対して誠実に生きていくなんて難しい。このままだと夢を追うわけでもなくただふらふらと無職のような生活に足を突っ込んでしまう。夢を追ってフリーター、みたいな有る意味類型化された生活に一度踏み込んだら抜け出すのも難しいのはわかっているし、そこそこの学歴を失ってまで中退なんて無意味だから、といって卒業してまっとうに一流企業に入って仕事を回している自分の姿というのもまったく浮かばないわけで、選択を迫られている、そしてそうした選択にも苦痛が伴うし、結局何もしなければ悪化するわけで、このような状況を経由して経済的にゆとりのある人間であれば引きこもりにでもなるのだろうか、なんてことを思った。そうした経済的な裏付けのない人間は自活せねばならない。これはどうしてもしなければならない。親には頼れない。揺れ動く精神状態の不安定なブランコを漕ぎながら現実問題から逃げまわるような人生には選択肢が与えられていなかった。

 

親が大富豪なら何もしなくてすんだのに、みたいな俗っぽい考え方をしてしまう。俺は格差を知る。俺は人々の生き様の間に、経済力の差で精神的労力の生涯負担量が大幅に変わるという真理を見る。両親の言いなりで生きていけるような一生のほうが楽だったかもしれないが、知らない、そういう生活は残念ながらこの世に産声を上げた時には既に待っていなかった。一体なにが問題なんだ。金か、精神か。頭の悪さか。誰が悪いんだ、なんて、ちょっと声を張り上げたりして、たまには誰かの責任にして逃げきりたい時もあるのだが、それで物事が解決した試しが無いので、真面目にこの問題と格闘しようと試みている。つまり、いかにして最小の努力によって持続可能な環境を作り出すかという問題であるが、ここまで具体的な問題に落としこむとだいぶ考えやすいと思われる。しかし、いわゆる社会の底辺という言葉のような状態になるまで働かず落ちるところまで落ちきる、努力しなくても下がらないところにまで行く、そんな生活はやる気が起きないしそもそも不潔に耐えられるだけの体力がない。人並み以上の生活は送りたい気がするし清貧みたいな価値観はないからお金だってあれば有るだけ欲しい、最小の手間で生きるためには金が必要だしどうにかちょっとした時間を売って誰かからほどほどに金を貰いたい。金が欲しいというありふれた凡庸な結論に達してしまった。

 

人生落ちていく一方という表現はあながち間違えていなくて、それはすなわち何もしていないということを意味しているんだろう。手を動かさない、頭を動かさないと本当に何事も悪くなる一方で、しかし何かを起こすためには労力が必要だ、そしてそれはしばしば莫大な精神的負担を強いるものであって、つまるところ生きているのは精神力の問題が甚大だ。そこそこの生活を維持しようと思ったらそこそこ以上の努力が強いられる世界に生きている。そしてそれは心の強くない人にとっては苦痛で仕方がない。この居心地の悪さは理解されない。

 

他人に向かって平気で努力しろだなんて言える人間を見ると、努力しようにも努力できないしただ現状を維持するだけでも精一杯なのに無理を言うなよと思う。現状維持のむずかしさ、みたいなものを強く感じている。世の中、どんなものでも続いていくわけがないと理屈の上では納得していても素朴な体感としてはほとんどの人間が永続性を信じている。しかし、やはり究極的にはどんなものもそのままの状態を保ちながら続いていくことなんてできないし、就職したら何もしないで現状を保てる、という幻想の上に成り立った将来設計なんて全く無意味なのかもしれない。そういう無意味なことを無意味と自覚しつつも部屋の隅で膝をかかえながら無限に続けている。誰も手入れをしなければ、食べ物は腐るし、生活しているだけで部屋は汚れるし、体は衰えていくし、花は枯れる、というように世界全体が作られているわけで、今のままを維持するというのは莫大な労力を費やしても難しい、そういう素朴な永続的な感覚の幻想を振り払って生きていく、つまりあらゆるものがいずれ衰えるし今を続けることはできないと考えながら生きていくのもそれはそれで疲れる。今の自分の生活も衰退する一つの流れの中にあって、加速度的にマイナスに傾いているグラフの上の一点にある人生の上で愚かにも未来は続くと信じて暮らしているようなそういう感覚。

 

無力感に苛まれると、何もしない生活、ニートのような生活に憧れたりもするし、世の中にはさまざまな形でそれを快適に実現させている人間もいるわけだけれど、それですら俺にとっては難しいのだろうという感覚を握り締めている。才能がないし適応力がない、働きたくなくてもテントで寝泊まりしてどんぐり採取に明け暮れるような生活が送りたいかといえば違う、と答えざるを得ない。それは短期間であれば可能かもしれないが、永続的に続けるのは労力に見合わないと感じてしまう。やはり働かねばならないのか。それにしてもこの亡霊のようについてまわる面倒くさい感覚はなぜ来るんだろう。

 

例えば、何かをやるときに過剰に先読みをする性格の人間というのがいる。あれをやったらこうなる、これをやったらああなる、何をするにしても結論を想像してしまうタイプの人間が。リスクを大げさに評価する人間、つまるところ自分のような人間は面倒臭さに生涯にわたって苛まれ続ける。日常的な会話の中でもそれを感じている。この人はああ言って、次にこうしゃべって、三秒後に頷きそう、みたいな先読みが無限 に続いていく。あまり先読みしすぎると何をしても得られる結果というのが想像できて楽しくなくなる。先がわかっているものに努力を捧げようだなんて考える人間はおそらく気が触れている。

 

とにかく、既視感が拡大している。暗い穴の中に落ちていくような、何を見ても観たことがあるというデジャヴのような感覚が脳の隅々まで支配している。そうして今に対する既視感が将来に対する既視感にもつながっていく。ありふれた人生にありふれた未来、つまらない現実がこれから先も続いていくのだろうかと考えると気が滅入る。そんな失望から逃れようと普通でない人生を思い描こうとしていると、レールからドロップアウトした人生、そんなものに憧れは微塵もないけれど、やがて自分自身が必然的にそうなるのだろうという僅かな予感が生まれてくる。安定した生活を求める一方で、先の読めない不安定な未来を心の奥底では渇望している自分がいる。あるいは首を切って死ぬしかないのかもしれない、あるいは線路の中に飛び込むしかないのかもしれない。普通の生活普通の人間、そういうのには心底うんざりするし既視感でめまいがする――変わった人間に興味があるというのは憧れとかそういうのではなくて、新しい情報を目にしないと落ち着かない情報中毒者というだけで、楽しめればなんでもよくて、それこそ障害者とか、世間的に見て不愉快で気持ち悪くて異常なことなら何でもいいのかもしれない。

 

現実というのはただでさえつまらないものだが、それを面白くしようと努力が働けば働くほどいっそう世界に対するつまらなさというのは強調されていく。テレビを見たりネットをしたりゲームをしたりという娯楽のたぐいはどれもそういうものを持っているが、特に熱中しやすい人ほどその傾向が強いのかもしれない。昔、戦争の中で過ごし、極限の緊張感の中でストレスにさらされ続け中毒に陥った人間は戦場でしか生きている実感を得られなくなる、そんな話を聞いたことがあるが、ひたすら娯楽に漬けられた人間もまた同じようなものだろう。非日常的な娯楽は生活に刺激を与え、刺激を与えると人はより強い刺激を求め、さながら中毒症状の様相を呈する。それは一種の自家中毒だ。

 

はのん