シルバーペーパー

秘密結社「シルバーペーパー」

ひとにやさしく

自分にとっては不快なことでも、他人がそれを「もてなし」として行っている場合に関してはその点を割り引いて理解する必要がある。これを攻撃されていると感じると病的な状態となり、攻撃されているとまで感じなくとも相手に善意を感じ取れない場合はいきぐるしい人生を歩くことになりそうだ。純然たる好意に対して触れた時、自分が不快になったとしても、それは自分の情緒的な理解と混同するべきではないと思う。

私を含めた通俗的にコミュ障とよばれるような層にとって、そういう人との会話は邪魔なものだとして遠ざけられがちであるが、一方で、そういう人をもてなすという向こうの思慮に対しては、たとえ自分が喜ばしく思わなくともそういったものを提供してくれようとしたことに対して、幾ばくかの感謝を感じるべきなのかもしれない。

個人的な話でいうと、対人コミュニケーションでの感情に対するプライオリティが低いことによって、しばしば口頭での会話が抑揚のないトーンに陥りがちであるというのと、理路整然とした会話以外が冗長に感じてしまうという欠点を内面的に抱えており、また特に親しい人間を除いて、ここの人の好き嫌いのフィルタリングが恐らく平均水準より強く働き、これはおそらく自分が(ことポジティブな感情に対して選択的に)共感するという能力を欠くことに起因していると考えられる。その点で、人を喜ばせたり、人に喜ばされたりという行為を受容したり、そういう部分が自分には致命的にかけている。

そういったものの考え方でいくと、他人を情緒的に充足させられる執事喫茶やらメイドカフェといったものはもう少し考えたほうがよくて、多分いまの自分にかけているのがそこら辺だと思う。このあいだとある執事喫茶について書かれたブログ記事を読んでいたら、非常に重厚な接客がされるということで、なるほど、これほどまでに本格的なもてなしというのを受けたり逆に与えたりというのは自分に経験がなく、それなりに面白い体験になるのではないかと思った。

自分がそういった厚遇を第三者に受けた場合、それは果たして嬉しいのだろうか、あるいは苦手なのか、分からないが、よく考えてみると世の中で行われているコミュニケーションというのは、そもそもが私が誤解しているように「やっかいなもの」「不快なもの」「冗長なもの」ではなくて「相手を喜ばせようとして気を使った会話」であるという点に気付かされている。私は美容師が嫌いであり、美容師とのコミュニケーションは私からすれば冗長で、会話は不快でしかないが、一方で提供する側としては一種のホスピタリティである。

先方がこれを好意として行う限り、私の側でそれを割り引いて考えないのは礼儀に欠けるように思う。