シルバーペーパー

秘密結社「シルバーペーパー」

新しく物事を勉強するその前に知っておくべきこと

悪魔のささやき

土曜日の朝、あなたはお気に入りのソファに寝転んで考えている。退屈だ。ああ、なんて退屈な人生だろう。のそりと体を起こし、カフェへ出かけてみる。昨日はどうも飲みすぎたみたいだ。二日酔いのぼんやりとした頭をコーヒーで醒ましてみる。あなたは思い切り欠伸をしながら、パラパラとお気に入りの本をめくってみる。しばらくして、ああ! 突然神からの啓示のように脳にひらめきが下りてくるのを感じている。「そうだ」とあなたは立ち上がる。「何か新しい趣味でも始めてみよう」 あなたは飲み終わったコーヒーマグをトレイごと戻し、意気揚々として本屋へ向かう。

待ちなさい。新しいことを始めたい、という誘惑は、あたかも悪魔のささやきだ。本屋に行って園芸やら陶芸やらの本を探す前にあなたには考えるべきことがいくつもある。「新しいことを始めてみよう」という悪魔のささやきに乗る前に、頭に入れておいて損はないと思われる情報をピックアップしてみた。ちょっと手と足を止めて、考えてみてほしい。

時と金とは交換できない

ベンジャミン・フランクリンは自著にこう残した。時は金なり。聞いたことあるだろう。確かにそうかもしれない。実際問題、時間は貴重だ。特に若いうちには――そしてここに、もうひとつ確かなことがある。 あなたの時間は金にできるかもしれないが、一度金になった時間は二度ともとには戻らない。覆水盆に返らず、時と金との関係は不可逆なのである。一度失われた時間は金で買い戻せない。

あなたがギタリストを目指す若者だとしよう。そのギターによって費やされた時間は、いくつもあるあなたの選択肢を殺すことによってえらばれた行為に他ならない。そしてこれからもその選択はあなたの人生における様々な可能性を殺し続けていく。私たちは常にあらゆる選択に直面している。これからあなたがある分野を究めるのに費やされる失われる予定の時間は、あなたが週末だらだらして「ああ損したな」などと考える時間の比ではない。

世の中に様々な学習塾がはびこるように、世の中全体の風潮として学ぶということは善であるとされている。なにかを勉強するということは、なにかとポジティブな文脈で語られがちである。しかし本質的な話をすると、ある物事を学ぶという行為によって得られた便益の傍らには、常に失われたものが存在しているはずである。

本当の習熟には十年単位の時間がかかると認める

特定の分野に対して、ある水準以上の知性を持った人間が、どんな形で最適にアプローチしたとしても、超えることができない時間の壁というのは、私の個人的な実感だが、確実に存在する。平均的にいって、この法則はあらゆる人間、あらゆる分野において、おおよそ当てはまる気がする。たかだか100時間程度勉強しただけで世界に名を残すような物理学者や数学者になった人間を私は知らない。本当に一つの道に習熟しようとしたとき、十年単位での時間が覚悟できないなら、それはそもそもそこに対して労力を割くべきではない――十年だって! そんなばかな。驚かれるだろうか。

私は少しも大げさとは思わない。誰もが認めたがらないだろうが、何かを始めるということはものすごく(いくら強調してもしたりないくらいには)時間がかかる。これは真実である。まず、何かに手を付ける前にこう胸に問いかけるといい。「果たして私はこの勉強に、今後の十年を投入する価値があるだろうか?」もしこの問いに対してYesと答えられないようであれば、その新しい参考書をレジへと運ぶ前に、少し手を止めて考えたほうがいいかもしれない。私はこう思う。経済学でいう機会費用の考え方は、個人レベルでの時間の運用にも適用可能ではないか。

コミットメントする対象を選別する

あなたは何かを勉強しようとしている。それはいいことだ。少なくとも、一般的には。あなたの家族も、前向きなあなたの取り組みを応援してくれるかもしれない。友達も。しかし考えてほしい。残りの限られた人生の何割もをそこへと投入していく覚悟があるだろうか。一つの物事に真剣に取り組むというのは、長期的な時間の投資、いや、より正確にいえば投機である。ギャンブルだ。リターンが得られるかはわからないし、莫大な時間というリソースの犠牲の上にしか成り立たない。

私はそのことを理解するのに長い年月を要した。本当に長い年月を費やしてしまった。あの頃、ティーンエイジャーの時の自分は、いろいろなものに手を出してみたものだった。楽器や小説、映画でもなんでも、片っ端から自分の気が向くままに作ってみよう、というのがそのころのモットーだった。とにかく、何でも、何でもいいからできなくてはいけない、という恐怖心のようなものが私の内側に常に支配していた。絵を描いたし音楽もやったし、小説も書いた。私を知る人なら笑うだろうが、私の押入れの棚にはハーモニカが眠っている。笑うがいい。とにかく、すべてが長くは続かなかった。手を付けては放り投げて、また次の何か面白いものに飛びついては投げ飛ばしていた。

私の趣味は次から次へと増えていったし、それなりに手を付けた分野には詳しくはなったかもしれないが、ある時ふと自分が異常な渦の中にあることに気が付いた。次から次へと新しいものに飛びついて、人より多少その分野に詳しくなったところで、プロになれるわけでもないという中途半端な存在になったとして、果たしてそれがいったいなんだというのだ?

利益を先延ばしにして走り続けることができるか

原則として、ある行為に着手した段階で、私たちがその行為から「結果として」何を得られるかは、その時点では決して誰にも知りえない。それは本人にも他人にもわからない。まさに世界は、神のみぞ知るという言葉通りに動いている。手にしたばかりの新品のそのかっこいいギターを見せられたところで、あなたが十年後にミュージシャンとして成功するかどうかは私にはわからないだろう。起業を始めたばかりのあなたが新規に始めるその事業が成功する見込みはないし、あるいは億万長者になっているかなどというのは誰にもわからない。

しかしここに確かなことがある。あなたがそれを追い求める間、あなたは何も見返りを得ることがなく、昼夜働き続けなくてはいけないということだ。

あなたが新しいことに着手しようとしているとき、漠然とした青写真が見えているのかもしれない。覚悟しておいたほうがいいのは、それは砂漠の中へ行って蜃気楼を追い続けることに近いということだ。そこにたどり着くためには、莫大な時間が、まとまった見返りのない状態で重く肩にのしかかり、あなたの負担になり続ける。ときには金銭的な負担という形をとり、ときには精神的負担という形で現れるかもしれない。

終わりに

何に対してコミットして、何を見返りに求めるのか。決めるならなるべく若いうちに決めたほうがいい。私は入念に入念を重ねて検討を行ったうえで、自分の行っているいくつかの趣味をあきらめ、自分の嗜好をはっきりさせることにした。学ぶべき専門分野を絞り込むのは容易ではなかった。結果として、よかったと思う。秩序のある生活を取り戻すことができた。

心のどこかで、無限な、莫大な時間と可能性があるのだ、と信じていたのかもしれない。だがそんなものはまやかしだ。人間は死ぬ。あまりにも容易に死ぬので、私たちは死ぬということを真面目に考えすらしない。限られた寿命の中でできる人間の可能性なんてたかが知れているのだから、好きなことに真面目に取り組んだほうがいい。