シルバーペーパー

秘密結社「シルバーペーパー」

考え方の違う人と接することについて

こないだカフェに居てぼうっとしていたら、隣の席にたまたま座った老婦人同士が延々とスピリチュアルな話題をしていて、その時初めて気づいたのだけど、世間にはこういうスピリチュアルな話題を好む人が多いということである。この間も東京ではあちらこちらに幽霊が見えるというなどという話題を、美容師に延々と振られてどうしたものかと辟易したものだったが、よく考えると私の祖父母もそういう話を好む傾向があり、例えば地方の妙な儀式なども霊的ななにかの存在を措定していると考えると、こういった考え方はむしろマジョリティを形成しているのかもしれない。そして私はこういうたぐいの人を無意識のうちに苦手にしている。この間まで理由がわからなかったが、端的に言えば、信仰の問題ということになる。

これは単純な信仰の問題なのだ、と一度認識すれば、別にそういった霊的な何かを信じていることについては私がとやかく言うことではないし、自分の考え方が正しいというのもおかしな話である、というのは理解できる。ただ、そういった人々が案外世の中のマジョリティを形成していることを考えると、そういう形而上の何かに対する信仰心というのは存外世の中にありふれていて、かつ私はそれを信じていないので、会話が噛み合わないということも多々あるのだろうなと思う。

他人と話が噛み合わないのはそもそも信じているものが根本的に違うのであって、それは良し悪しの問題とは全く別の次元であり、噛み合わなくても仕方がない。私が妥協的になることもないし、彼らが妥協的になることもないだろうし、お互いの会話は理解されることがなくシャボン玉のように宙に浮かんで消えていくのだろう。

考え方が根本的に違う人に合わせるのは不可能なので、そういう場合についての対処方法は、完全にそれが受容可能なものでない限り、一種の思考停止にとどめておくのが正しくて、同調しているという仕草だけを示して自分の側の理屈で考えるのをやめておくことにつきる。

異なった信仰を抱く人間同士が最大限お互いの幸福度を上げる、妥協的な方法というのは、一般的には相手の発言に対して共感と呼ばれるようなたぐいのサインを発信することである。そこに自分の論理を持ち込むことは共感を阻害する行為であり、相手の発言に対して矛盾を突きつける行為にほかならない。信仰が根幹から違う相手に対して、すなわち前提が咬み合わない人間に対して、論理的な思考であったり発言であったりというのは一切が邪魔なだけなので、他人と会話する上では思考は不要である。これを窮極的に突き詰めると、他人にたいして優しく接するためにはものを考えてはいけないという結論にたどり着く。

人と考え方が違う、それは悪いことでもいいことでもない。単なる信仰の違いであって、貴賎の問題でも優劣の問題でもないのだ。そして信仰の違う人間に対しては思考を止めなければならない。さもなくば双方が感情の面において不利益を被る。