シルバーペーパー

秘密結社「シルバーペーパー」

パーシー・アドロン『バグダッド・カフェ(’87 西ドイツ)』

今回のブログでは『バグダッド・カフェ』を取り上げてみようと思う。

ジェヴェッタ・スティールが歌うテーマ曲「Calling You」でよく知られている作品だ。

この記事を書いている1月22日現在、『ブリキの太鼓』とともに早稲田松竹で二本立てで上映されている。

 

バグダッド・カフェ 完全版 [DVD]

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この映画について「コミュニケーションの交通」そして「道化」という2つの観点から考察してみたい。おもいっきりネタバレです。

 【あらすじ】
 ドイツからの旅行者ジャスミンがアメリカの砂漠を旅行中に夫と喧嘩をして、夫のトランクを抱えて車を飛び出しモーテル兼カフェの「バグダッド・カフェ」にたどり着く。「バグダッド・カフェ」では酒も出せずコーヒーメーカーも故障している。「バグダッド・カフェ」の女主人ブレンダはまともに働かない夫を追い出したばかり、遊び呆ける子供たちにも怒り、ストレスが頂点近くまで溜まっていた。
 車以外では来ないようなしかも泊まる人間など殆ど来ない場所に泊まりに来たこと、そして夫のトランクを持っていたことからブレンダはジャスミンを当初疑う。保安官を呼ばれるがジャスミンのビザや航空券はもちろん本物でありその場は何の問題もなく解決する。
 これで安心したのかジャスミンは勝手に汚いブレンダのオフィスを掃除する。ブレンダは当然ながら激怒する。それにも懲りずジャスミンはブレンダの子どもたちと打ち解ける。そんなジャスミンに怒りを覚えるブレンダはジャスミンに「出て行け!自分の子と遊びな!」と一喝するが、ブレンダの答えは「子供はいないの・・・」。ここでブレンダの気持ちは拒否から受容へと変わる。
 バグダッド・カフェでの生活でジャスミンは子どもたちと交流を深め、バグダッド・カフェに住み着く画家のルーディのモデルになる。またそんな中マジックの練習にも励んだ。マジックをカフェで披露し、そのマジックによってカフェは活気づく。しかしジャスミンのビザの期限切れを迎え、ジャスミンはドイツへ帰ることになる。そうするとカフェはまた以前のように閑散とした風景に戻る。
 静かに戻ったバグダッド・カフェで一人以前のように座るブレンダの前にジャスミンがに戻ってくるところで映画は結末を迎える。

1.バグダッド・カフェにおけるコミュニケーションの交通
 砂漠の中にあるカフェ、バグダッド・カフェ。映画の最初、バグダッド・カフェでは酒もコーヒーも出てこないもはカフェとは呼べない代物であった。まともに飲み物も出てこないカフェでは雰囲気を楽しめるようなことがあるはずもない。まさに砂漠の延長上にあるような渇ききったカフェであった。バグダッド・カフェの家族の関係も渇いていた。ブレンダは働かない夫を追い出し、息子(サルJr)はピアノを弾くばかりで子供の世話をせず、娘(フィリス)はトラックドライバーと遊び呆けてブレンダのいうことも聞いていない。店員もなんともやる気が無い。
 しかしドイツからの闖入者ジャスミンの登場がカフェを変えていく。夫とは完全に縁を切り、好きな子供もいない彼女は辿り着いたバグダッド・カフェにその空白を埋める役割を求める。それ故に彼女は勝手にブレンダのオフィスを掃除し、フィリスに服を貸し、サラJrのピアノを聞く。最初は彼女に嫌悪感を示していたバグダッド・カフェの人々もジャスミンを受け入れる。
 何故バグダッド・カフェの人々がジャスミンを受け入れたのか。それは渇ききった家族関係の中で消えていたコミュニケーションの交通をジャスミンが持っていたからだろう。ブレンダはサラJrがピアノを弾いていてもそれをしっかり聞こうとなど思わなかったし、フィリスが遊び呆けているのを厳しく叱責するだけだった。しかしジャスミンはサラJrのピアノを座ってじっくりと聴き、フィリスが勝手に服を漁っているところを見ても怒らずむしろ服を着せてやった。ジャスミンによるコミュニケーションの交通がブレンダに子どもとのコミュニケーションのあり方、大事さを気づかせた。この交通がバグダッド・カフェの渇いた家族関係を潤し、ジャスミンを受け入れることになったのだと言える。このような交通を作り上げることは既存の人間では非常に難しいのは凝り固まった人間関係全般を考えればわかりやすいだろう、いきなりの不思議な闖入者ジャスミンだからこそなのである。
 さてジャスミンはマジックのレッスンを始め、そのマジックによりバグダッド・カフェを大いに活気づける。ここでマジックはコミュニケーションの交通の奇跡を象徴していると言っていい。ジャスミンが現れたことは奇跡的であり、そのことによってブレンダはジャスミンとの交流でストレスから解き放たれ人間らしさを取り戻し、バグダッド・カフェ全体の渇きは解放された。その延長線上に、いわば象徴としてマジックによって繁盛するバグダッド・カフェがある。最初のまともにコーヒーも出せないカフェから客を楽しませ繁盛するカフェへの変化は、バグダッド・カフェ内部のコミュニケーションの変化と対応しているのである。
 奇跡の存在であったジャスミンはビザの期限切れによってドイツへと帰国する。それと同時に奇跡が終わり、バグダッド・カフェは元に戻る。しかしジャスミンは帰ってくる、そして彼女の絵を書いていたルーディと結婚することでアメリカ市民となれるというところでエンディングを迎える。奇跡を奇跡で終わらせない、日常としての定着としてのエンディングといえるだろう。個人的にはここまで描かなくてもよかったかなとは思うが。
 
 映画の構図の違いに注目しても、コミュニケーションの発達の度合いを見て取れるだろう。当初のコミュニケーション不全だったころは画面の構図は複数人が登場しても左右前後にバラついている、あるいは余白が随分多く取られた構図が印象的である。また色つきの窓を通してのシーン、ドア越しのシーンなども多く見られる。これらの構図からは奇妙なまでの空間の不自然さを強調しているような感じが見受けられる。しかし徐々にブレンダやバグダッド・カフェとジャスミンのコミュニケーションの交通が潤滑になるに連れて最初のような構図は少なくなり、自然な距離感の構図が増えてくる。構図の変化もコミュニケーション交通の発達を豊かな表現で象徴しているのである。


2.「道化」のイメージによるジャスミンの考察 
 映画の冒頭ジャスミンが登場して夫と別れるシーンのドタバタなカットは意図が掴みにくい部分だ。映像は上下左右に展開し、何度も車が前後動を繰り返す。このシーンは『道化の民俗学』で山口昌男が指摘するような「道化」のイメージを頭にいれると少し理解できるような気がする。
 何故「道化」のイメージを持ちだしたのか。ここでジャスミンが最初に持ってきたトランクは夫のものであったこと、であるがゆえに当然男物しか入っていなかったことを思い出そう。ジャスミンはそれにより男装しているような状態になった。そのジャスミンがいわば「コミュニティの境界」を打ち破って闖入した(それ故にコミュニケーションの交通を作れたということは前に述べたとおりだ)。滑稽な女性の男装、境界性を超えるイメージから「道化」のイメージを付随させることは若干牽強付会がすぎるかもしれないが、面白い試みであるといえる。(詳しくは山口昌男『道化の民俗学』を読んでほしい。)マジックに関してもこの「道化」のイメージとマジックの両義性(あるものを消す、ないものを出現させる)を関連付けることもできるだろう。
 最も「道化」らしい部分は、ブレンダのオフィスをジャスミンが勝手に掃除する場面である。映画全体を通しての不思議な雰囲気のうちに観客は了承してしまいがちかもしれないが、いくらオフィスが汚いからといって客であるジャスミンが勝手にモーテルのオフィスを掃除し私物を捨てるということは明らかにおかしい。もちろんジャスミンは良心からやっているのだろうが、冷静になれば明らかに社会的には悪い行為である。この場面から感じ取れるのは「境界を侵犯する自由な存在」であり「善悪の両義性」である。
 『バグダッド・カフェ』という映画全体でジャスミンの「道化」らしさが貫かれているわけでは決して無い。むしろそのような場面は少ないぐらいである。しかしジャスミンの中にこのような「道化」的な部分があることを指摘しておくことはできるだろう。
 この甘い論証からではあるが、個人的には、ジャスミンに「道化」的部分があるからこそバグダッド・カフェにおいて「境界を侵犯する自由な存在」として奇跡的で魅力的なコミュニケーションの交通を果たせたのだ、という言い方をしたくなる。


 バグダッド・カフェにおけるコミュニケーションの交通の考察、そしてジャスミンが「道化」的部分を持っているという考察を今回行ってみた。特に「道化」についての考察は自分の興味範囲に引きずり込んでしまった牽強付会の感もあるが、決して完全にズレた考察だとは思わない。是非皆さんも少し考えてみて欲しい。

 

みんちぇ