シルバーペーパー

秘密結社「シルバーペーパー」

エッセイ「私の話をしよう」

「もしも君が、ほんとにこの話を聞きたいんならだな、まず、僕がどこで生まれたとか、チャチな幼年時代はどんなだったのかとか、僕が生まれる前に両親は何をやってたかとか、そういった《デーヴィッド・カパーフィールド》式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ、実をいうと僕は、そんなことはしゃべりたくないんだな。」

 

私は物語がデーヴィット・カパーフィールド式に始まるのも嫌いじゃない。むしろグッドフェローズみたいに大好きな作品もある。きっとホールデン・コンフィールド君も大好きだったはずだ。彼は照れくさがりだからね。

 物語はどこで始まってどこで終わるか、それを決定するのは物語の筆者か、それとも読者か。物語性はどこにでも存在する。例えば、仮に銀紙という青年(例えばの話しだ)が居たとして、彼が大学に行きたくない話ですら物語性に溢れているではないか。一人でベンチに座り、パンを食べる。空を見上げると鳥が二匹、太陽を遮ってスクランブルしながら何処かへ去っていく。彼は一言つぶやくのだ「僕はこんなにも一人だ。」ただ彼はベンチの裏手の草むらに潜んでいる彼女の存在を知らないのだ――。

 

 私が昔からよく考えていることは、自分がこのまま自我を保ちながら他人の脳みそに入り込んで生活や考えを観察してみたいということである。私以外の人間は何を考えて生きているのか、何を思って行動を起こすのか。何もかもが不思議でならない。他人に入り込む、というのはどこかアリス・イン・ワンダーランドを彷彿とさせるようにも思う。いま「エッセイ」としてこの文章を書いているが、大して意味は無い。だから何かしらの暗号が隠されているなんてサイモン・シンめいた発想を持つのは過ちだ。徒然なるままに由無し事を書いているに過ぎない。

 

 面白い話がある。人工知能をめぐる思考実験の始まりとされた「フレーム問題」というものだ。これは「人工知能は、いまから行うことに関係あることだけを選び出すことはできるか?」というもので、設定としては部屋の中に絵と爆弾を乗せてある台車が置いてある。機械がこれを外に持ち出すわけだが、台車を持って行くと爆弾が乗ったままでついてくる。人間なら当然爆弾をおろして台車を引っ張るわけだが、機械はその判断が出来るか、というものだ。機械は副次性を考えず、関係性がある枠組みを考えることが出来ない。そのため、絵以外のことを考え始めると、天井が落ちてくるのではないか、床が抜けるのではないか、と色々と心配事を考えて副次的事柄が多すぎて一歩も動けなくなってしまうというのだ。

 では、人間は副次的事柄を考えないか、そんなことはないだろう。明日地震が起こるかも知れないし政府転覆するかもしれないし核戦争が始まって冬が訪れるかもしれない。そんな心配は心のどこかに持っている人も津々浦々探せば居るかもしれない。大抵の人間は経験的に大丈夫と考えていることであり、きっとフレーム問題の人工知能も100年ばかりじっとしていたら床が抜けないことを学習するだろう。それとも、大して人間は特別なものではないのか、はたまたその問題自体を考えたのが人間だから、この問題自体が人間的な発想なのか。

 「アンドロイドは電気羊の夢を見るのか?」というフィリップ・K・ディックSF小説では、人間とアンドロイドの境界線がなくなる。私は日常生活のうちで常に疑問を持っている。「私は私か?」人間は人間であるのか。映画『マトリックス(1999)』の中のように意識だけが取り出された世界ではないのだろうか。

 物は考えようだ。私はこう考えるようにしている。「もし私(身体)に私(意識)が間違って入っているとしたらどうだろうか」哲学の分野では主体とは何かについて深く考察することが多いが、そんなに難しいレベルではなく、もっと感覚的に考えて欲しい。

 

あなたはしっかりとあなたに「入っている」だろうか?

 

 なんとなく、日常というものが非日常的で物語めいて来るように思う。そんな日々もまた、楽しくはないのだろうか

 

 

竜崎大