シルバーペーパー

秘密結社「シルバーペーパー」

相も変わらず日本は――

「野球と政治の話は、酒の席でするな」

 誰が言ったか知らないが、確かにその通りだと思う。ただ、いまは酒を飲んでないので、政治の話をすることにする。 常々不思議なのだが、なぜ人間は議論をするのだろうか。

――真に正しいと確信出来るものが無いから。

なるほどそれも、ひとつの理由だろう。だが、それだけか? 例えば、我々が、からくり仕掛けの木組みの人形で、ある入力に対してある出力をすると仮定したとき、量産された人形たちは一様な入力に対して一様な出力を返すか? 我々人間が同様の状況下に陥ったときになぜ同様の判断を下し、行動しないのか。 人はそれぞれ違うから当たり前だ、という陳腐な回答はいらない。 逆に問おう、どうすれば、ある一定の水準を持って物事を「真」たらしめることができるのだろうか。  

判断は、人間の持った知識や経験から導き出される。だが、我々が持っている知識や経験はばらばらだ。実に、厄介なことだが。 西洋の人たちはこの厄介なことに立ち向かうために、古くからどうやら確からしいことを積み上げてきた。しかしそれは途中で何度も覆され構成し直されてきた。当然、それらはその度に強度を増し、武装する。そうして、厄介なものは一度平易に分解された後にまたも複雑な様相を呈して厄介な物に成り代わった。それが哲学だと、私は理解している。そして哲学は、イデオロギーとなり、世界を揺るがした。

日出処

丸山真男『日本の思想』では、次のような鋭い指摘がなされている。

(日本においては)むしろちがったカルチュアの精神的作品を理解するときに、まずそれを徹底的に自己と異なるものと措定してこれに対面するという心構えの希薄さ、その意味でのものわかりの良さから生まれる安易な接合の「伝統」が、かえって何ものをも伝統化しないという点が大事なのである。(中略)最初は好奇心を示しても、すぐ「あゝあれか」ということになってしまう。過敏症と不感症が逆説的に結合するのである。

彼は日本の思想不在の特殊性、無限許容性について詳しく触れるが、これは現代でも続いている日本の体質であると感ぜられる。 つまり、日本は、異常に過敏症で不感症なのである。ある異物に対して、極度に許容がありすぎる。そこには「異物」に対して「伝統」が対立するはずが、すぐに「伝統化」してしまうという危険性が隠れている。そして、その「伝統化」は感覚的現実味から遊離する。

では、現代の日本が抱えている「伝統化」された危険性とは何か――それは憲法九条である。

第二次世界大戦は多くの犠牲を払い、日本が国を存続させるためにポツダム宣言を受諾し「敗戦」することで終わった。そこで亡くなった多くの方々には様々な思いがあっただろう。 *1

私は戦争が必要であったと言いたいわけではない。戦争そのものが悪である。しかし、そこで戦った人々、英霊を踏みにじる事は決して許されないと思う。多くの人が亡くなったというその事実の上に、現代の日本が存在する。「お国のために」と正義を信じ散っていった彼ら、それを歴然とした事実として見つめなければならないと言っているのだ。敬い奉るのが、当然だろう。

さて、大戦を経て、すぐに急激な経済成長、近代化、そして先進国として西欧へ対抗しうる段階まで成熟した日本は、憲法を主柱とする法治国家として今日までやってきた。

そして、最近になって様々な問題がようやく落ち着いて見つめなおされるようになってきたのだ。

日本は、戦後復興でも、持ち前の「伝統化」によって多くのことを急速に吸収してきた。しかし、なぜ今になってその柱が揺らごうとしているのか。それこそが日本の抱える問題点なのである。

憲法九条

憲法九条は実に高度なテクニックを用いて憲法学者たちが読み解くことで、取り繕われているが、ひと目見ると、明らかに自衛隊を否定しているように読める。

第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

2項に関しては多くの議論がなされており、また「交戦権」が一体どういうものかの明確な定義も無い。しかし、現状日本は自衛隊を保有している。英語で言えば「Japan Self-Defense Forces」だが、あくまでも「Forces」である。武力であるのは明らかだ。

これをおかしいと感じない人が、どこにいるのだろうか。

日本を支える根幹であるはずの憲法が明らかにおかしいのだ。ただ、「戦力の放棄」をやめ「自衛のための武力を認める」だけで良いのにである。これは、日本人が問題を問題としない「伝統」体質から来た結果である。その歪がいま生まれ始めている。*2

目指すべきところ

現在の日本を考える上で欠かすことが出来ないのは、当然米国の存在だ。憲法九条の理想は確かに素晴らしいが、米国の核の傘の元にいればこそと考えるひとは少なく無いだろう。日本は条約により、一方的に庇護されることが保証されている。*3 しかし、この関係はいつまでも続くものなのだろうか。 そもそも、国家として健全な形だと言えるだろうか。

憲法九条と共に重要なのが憲法十三条、いわゆる幸福追求権である。

第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

これを果たすことが、何より国家として望まれることだろう。この実現のために、正しい選択をしていくのが政治家というものではないだろう。そのためには、万全の態勢を取るべきだ。日本の現状は実に不健全だと言える。

さて、現在進められている集団的自衛権、これらの方向性は正しいものだと思う。だが方法が健全だとは思えない。安部総理の進める目標は「世界の中で存在感のある日本」だ。それは、国民の幸福に正しく対応した思想なのか、疑問だ。

今望まれているのは、アベノミクスを完遂し、日本の経済を立ち直らせること。それに対して実際にやっているのは(マスコミが原因でもあるが)右傾化とレッテルを貼られるような悪目立ちが過ぎることは否めないだろう。

グローバル化が進んだ現代では、国の運営は経済にも直結する。それをおろそかにしながら国を見直す事ができるのか。地面が危ういままでは、どんな大樹も育たない。

日本という国の体質をしっかりと見つめ、問題とするべきことを正しく認識して議論を成熟していかなければ、未来に禍根を残すことだろう。

最後に

日本、そして世界。平和とは何か。そういった根本的な議論は十分にし尽くされていまい。日本国内だけでも多くの問題がある。人類が形成する社会という複雑系は、人類が扱うにはあまりにも難解すぎる。だが、人が得ることのできる幸福という不確かな事象は確かにそこにある。そしてそれは平和を礎としている。健全な肉体に健全な精神が宿るならば、健全な国家にこそ、健全な幸福が湛ええられることだろう。

そうすれば、10年後、50年後にも相も変わらず日本は、現在のように、平和でのうのうとした暮らしができることだろう。でなければ、"過敏症"がまた同じ過ちを繰り返さないとも限らない。

たぶんそんなに傾いてない、竜崎大

*1:余談だが、原爆というのは、明らかに「実験的に」「米兵の命を守るためだけに、これ以上の犠牲を出さないために」使用された。これは米国政府が承認するところである。それは彼らの合理的判断と言える。しかし、彼らの決断にはどこにも「日本人」は介在しないということもまた、忘れてはならない。

*2:武力持つこと自体を疑う人は、人を信じすぎていると思う。最悪の選択肢をちらつかせてこそ、戦争は起きない。抑止の概念は必要悪であり、人間は信じるに足るほど完全な存在ではない。これは人類が経験的に知っている事実だ。

*3:集団的自衛権の安全保障有識者懇談会の委員がおいて「相手に助けてもらうのにこちらが一方的に助けないというのはおかしい」という旨の発言をした記事を読んだが、論拠としてあまりにも弱すぎる口当たりの良い説明でしか無い。