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秘密結社「シルバーペーパー」

市川崑『東京オリンピック('65)』

 2013年の年の瀬、最後に早稲田松竹で見たのが市川崑東京オリンピック』である。3時間弱の記録映画であったが、その映像の美しさ、編集の素晴らしさは観客を飽きさせない。

 市川崑はこの『東京オリンピック』という記録映画において純粋にスポーツ競技を記録したと言えないことは作品を観ていただければすぐにわかることだ。もちろん最初にこの映画の大きな魅力としてあげられるのは、人間の肉体の美しさや荘厳さの描出であろう。それを踏まえた上で、更に彼は何を軸に映像を切り取ったのだろうか。自分勝手ながら私は大きく言えば2つのテーマを感じ取った。「復興」と「平和」である。

 冒頭、鉄球によって壊される建物から始まる。この破壊は新たな建物を建設するための破壊であり戦争の破壊とは全く違う。いわば創造への破壊なのである。
 そして聖火リレーは東南アジアを通り、沖縄を抜け、広島を通って行く。これらの土地はいわば太平洋戦争における大きな戦地、被災地である。市川はこれらの土地の人々が聖火に群がり熱狂するさまを強調するように撮る。オリンピックの平和の火が復興を果たした戦地を通り抜けるといういわば「復興の儀式」を記録することに彼が注力したことは容易に推測できる。市川崑は、新たな東京を復興しその東京へ平和のシンボルを繋いでいくという、いわば本質的な「聖火リレー」を記録した。
 そして競技映像において市川崑はマイノリティを映しだし、敗者を映しだした。3人の選手団で来日したチャドの選手、肩を痛めクロールではなく平泳ぎで泳いだ近代五種の選手、立ち止まり何度も給水をするマラソンの選手。勝者を追い続けるのではなく、マイノリティや敗者を映像として記録する。スタジアムの観衆は敗者にも、いや敗者にこそ盛大な拍手を贈る。スポーツが争いであると同時に平和のシンボルになりうる理由は、マイノリティにも開かれた平等な闘いであること、そして敗者への称賛・拍手が絶えないことだろう。
 付け加えるならば、選手を紹介するときに「機械工」や「教師」など平時の職業を添えていた点も面白いところだ。平和な時にしか民衆はスポーツをやる余裕は生まれ難いだろう。今のオリンピックでは殆ど失われたアマチュアリズムは、ある種平和の象徴にもなっている。
 最後の閉会式は言うまでもなく「平和の儀式」であった。国も人種も超えて皆が肩を組み合って入場し五輪の最後を惜しみ合う姿はまさしく平和の祭典であるオリンピックにふさわしく、更に言えば有史以来初めて東洋で行われたオリンピックにふさわしい。


 2020年東京オリンピックでもまた同じように映画が作られるのだろう。東日本大震災とそれに伴う原発事故からの「復興」は喫緊の課題であり、2020年に向けて最も重要な課題である。そして中韓との対立、それに伴う過剰なナショナリズムの気配を敏感に察知し、「平和」へと歩みを転換することが求められる。オリンピックに多少のナショナリズムはむしろプラスになりうるかもしれないが、過剰なナショナリズムは「平和の儀式」であった1964年の閉会式とは真逆のものを創りだすだろう。

 新たな記録映画が「平和」や「復興」を描き出すかはわからないが、少なくとも描き出すことが可能なオリンピックになってほしいものだ。

みんちぇ