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『グッドフェローズ(1990)』-マーティン・スコセッシ

 数多くある名作ギャング映画の中でも是非見てもらいたい作品といえば、鬼才マーティン・スコセッシ監督の『グッドフェローズ(1990)』であろう。彼のイタリア移民社会での経験によって培われた暴力や苦悩、生きるというテーマは実に説得力があり、また深遠さを孕んでいると言える。

 

 このレビューにはネタバレが含まれるため、一度視聴してから読んでもらいたい。

 

 まず、この映画で注目すべきはその構成にある。冒頭における主人公であるヘンリー・ヒル役のレイ・リオッタの語りは、通常の回想とは違い、「こいつはジミー(ロバート・デ・ニーロ)」と言ったように第三者的に映画を俯瞰しているような台詞回しである。これは映画という内的枠組みを取り払った斬新さがある。実際に見ていると横に彼が居るように思えるのである。このように、本作では登場人物がナレーターとしての役目を負っている。

 

 次に注目すべきは登場人物とその行動である。ギャング映画というのはその多くが組織同士の抗争やギャングと警察との対立などを主軸に置くものが多い。それに対して本作ではそこが主軸ではなく、登場人物たちがあるがまま、”人”そのものを描いているといえる。例えば、ジミーは大物ギャングだが、殺しよりも盗みを好む。作中では彼はひたすら盗みを働き自身の欲望を満たし続ける。ヘンリーの相棒のトミー(ジョー・ペシ)は、気に食わないやつは殺す。言うことを聞かなければいつどこだろうが殺す。しかしそれは殺すのが好きなだけではなく、自分が強いということを見せつけるというただそれだけのためである。主人公のヘンリーはといえば、幼少期から大統領よりもギャングに憧れていたということもありひたすら何者にも指図されない”自由”を享受し続けることに熱中する。刑務所だろうがどこだろうが死なない限りに自由を主張し続ける。彼の生きるということへの執念のようなものも感じさせられる。全員が全員、正気ではないが、そこには人間が生きるということ、そのものがあるのではないか。

 

 彼らは自分たちのようなに自由に生きる(それはパン屋で並ぶ必要がないことであり、ショーで待ちもせず特等席に座れることである)ギャングをワイズガイと呼び、また、自分たちのことをグッドフェローズと呼んだ。本来、ワイズガイやグッドフェラーはマフィアの正式な構成員であるメイドマンの呼称である。マフィアは基本的にシチリア系しかなれないため、ジミーやヘンリーのようなアイルランド系は正式な構成員、幹部にはなれない。そのためここではマフィアではなくギャングと表記している。

 

 物語の終盤では、彼らは好き勝手めちゃくちゃやった後、ヘンリーが仲間を売るはめになるのだが、その結果として彼は妻子を守るために証人保護プログラムを受けることになる。(というよりも、それは仲間を売ったというワイズガイには許されない行為の代償に殺されることを恐れたためでもある。)そして、彼が最後に得たのはギャングとしての自由ではなく、小市民としての平凡な暮らしであった。これは彼にとってはつまらないものである。彼は、ワイズガイにはなれなかったわけだ。彼の栄光と凋落――この空虚な終わり方は、実に乾いた皮肉っぽさがある。

 

 マーティン・スコセッシ監督がギャングを描いたこの作品は、エンターテイメント性がとても高く痛快である。しかしながらその深いメッセージ性、彼が描いた生の人間というのはあまりにも身近だ。彼らのThug lifeを見て、自分のことについて考えるのも、また良いのではないだろうか。

 

竜崎 大