シルバーペーパー

秘密結社「シルバーペーパー」

日々の妄想、短編「主よ、人の望みの喜びよ」

彼女の話をしよう。取り留めもなく、この手記もこの黒い手帳に書き込まれただけのなんの意味もないものだ。

僕はそれでも、黒鉛の塊をひたすらに繊維の塊に擦り付けるのだ。また、彼女に会えるのだろうか。

彼女と出会ったのは、まだ僕が学生であったころのことだ。

当時、特に何をするわけでもなくひたすらに酒とタバコにふけっていた。

酒はいい。彼らはこういう。「きみはいつだって悪くはないんだ。だってぼくが悪いんだからね」と。

そんな彼らに、きみはわるくないよ、と僕はスコッチのグラスを揺らしながら語りかけるんだ。

ぶつかり合う氷が、コツンと響く。

彼女は実に賢かった。

それよりも何よりも、美しかった。

君が笑うと、光が差し込むんだ。そうだ、光だ。

例えば僕が木漏れ日あふれるベンチで退屈な本を顔にかぶせて(それは大体が無意味で退屈な哲学書だったが)寝ていると

君がやってきて言うんだ。

「あなた、その本はとっても重いのに平気なの」

「へいちゃらさ。なんたって、僕の頭のほうが重いからね」

「そういうものかしら」

髪をかきあげると、ふわっと香るんだ。シャンプーやコンディショナーのそれが。

そんな日々は永遠だと思っていたんだ。例えば哲学書が、いつまでも読み続けられているみたいに、僕たちの関係も

永遠だと思っていたんだ。

 

 

僕たちは旅館に居た。

遠くに来たのに、途中の列車の中ではあまり言葉も交わさなかった。

ガタンゴトンと、電車は言うが、君は押し黙ったままだから僕もそうした。

別に君が悪いなんて言うつもりはない。そういう気分だったんだ。

旅館は少し古びた造りで、そもそもが今は流行っていなさそうな温泉街だった。

周りにあるのは山ばかりだが、特に名所という名所がない。

しかしながら、むしろ僕が非難したいのは、名所が名所めいたせいで、ただの山が悪く言われることだ。

奴らだって悪気があったわけでもない。

被害者なのだ。なんでもかんでも変わらないことが悪いことみたいに言うんじゃあない。

旅館に入って、汚れたガラス窓を通して見えるささやかな池には、それでも威張った鯉が泳いでいた。

あまりにも滑稽で、少し涙が出そうになった。彼女の目を見つめると、微笑んでいた。

 

 

部屋にいると、特にやることもなかった。

テレビはよく知らない地方番組を映すどころか、そもそも砂漠しかなかった。

ここに住む人々は一体何をして過ごすのだろうと途方に暮れた。

彼女は不思議そうに部屋の隅に置かれている机の中で見つけたよくわからない道具をいじっていた。

僕は彼女をじっと見つめていた。

少しすると彼女もそれに飽きたようで、部屋を見回して「ここは古いわね」と言った。

「いつか壊れてなくなってしまうんでしょうか」と。

僕は何も言わなかったが、彼女を見つめ続けていた。

彼女と目が合うと、いつもの、優しい目をした。

僕は君がどこまでもいってしまうと懷った。

私は銀河鉄道の夜が好きだ。カムパネルラよ、僕は、そこへ辿り着けるかな。

黄金色に輝く、野原を見てみたいんだ。

そうすれば、こんな気持はどこかへいってしまうと思うんだ。

 

 

いい時間になったので湯に浸かり、火照った身体のまま部屋に戻った。

窓際で向い合って座ったが、すぐに寒くなった。

「こっちにきたらどうだ」

「あなたがこちらに来ればいいのですよ」

おかしくなって二人で笑った。

彼女がふいに悲しい顔をする。

どうしたって綺麗なのに、悲しい顔をするときはとびきり綺麗なんだ。

だから言ってやった。

「どうしてそんなに不細工な顔をするんだ」

「寒くなってきましたね」

窓には結露ができていた。

しずくが集まって、流れ落ちた。

 

 

自然と、彼女とまぐわっていた。

とても幼稚だ。

動きながら、がむしゃらに吸う。彼女は声を抑えるどころか、僕をなだめるように頭を撫でるのだ。

私は、泣く。それは母性か。

君と僕がひとつになるたびに思っていたのだ。

僕は君ではないんだと。

そのまま君に抱かれて僕は眠った。

 

 

それから一週間ほど、毎日僕の話と君の話をした。

例えば、酒に酔って飲み屋で倒れて二人がかりで担がれて運ばれた話やそんなことをだ。

ある日、彼女がこんな話を始めた。

シェイクスピアは、あまりにもロマンティックすぎると思わない」

「どうして?」

「だって、きっと私だったら後追い自殺なんてしないもの。」

「月は不実かい?」

「いいえ」

顔を逸らしてこういった。

「そんなことないわ」

 

 

程なくして、夜になった。

布団の中でふたり、手をつないでいた。

私は、勃起しなかった。

彼女が「花が枯れてしまう前は、とても綺麗に見えるものなの」といった。

僕もそう思った。

カーテンの間から差す光は、彼女の頬と首と鎖骨を写していた。

月明かりは、人間を惑わす。

僕は勃起した。

彼女は熱っぽく僕を見つめた。

深く、互いを理解した。

声が、声ではないが、声が聞こえた。

だから僕も答えた。

明日は、きっと月が出ないだろう。

 

 

帰りの列車で、僕と彼女はいつになく楽しくしゃべった。

出会ったばかりの頃のように、きらきらと輝いていた日々のように、陽だまりの中にいるような気分だった。

もう、旅も終わる少し前に彼女が言った。

「月は、寂しくないのかしら。きっと、自分を抱きしめることでしか、自分を確かめられないんだと思うわ。

だって、月明かりを見ていると、太陽の暖かさは、いつの間にか冷たい光に変わってしまうんだもの。」

「つらいかい?」

「うん」

「僕もだ」

僕は彼女を抱きしめて、大声で叫んだ。

「僕は君と死ぬ」

 

 

彼の記録はここまでだ。何度読んだって、彼という人間、そして彼女について考えると、この世に神は居ないと思う。

流行病だったらしい。

治らないんだそうだ。

私は、この手帳をいつも持っている。

愛すべき我が友人と、その彼女に幸を。

 

竜崎大