シルバーペーパー

秘密結社「シルバーペーパー」

どうでもいい話

1980年代後半-90年代の日本のゲーム系コミュニティのBBSログを読んでいたのだがどうも今時のブログのようなネット文体とは文章の密度も感じが違うようで読みにくい。パソコン通信草の根BBSなので、600bpsなんていう文字が平気で出てきたりして驚く。回線速度はずいぶん早くなった。

どうでもよいことなのだけど「>ALL」のような全体にあてたレスの書き方は80年台後半にはすでにあったようである。歴史を感じる。

花澤香菜「Blue Avenue」感想。上質なサウンドと安定の花澤ボイスに酔える一枚。

落ち着いた大人の魅力を全面に

ここ最近の声優のj-pop界への進出は着々と進んでいるようだが、竹達彩奈のソロや、彼女と悠木碧と組んだプチミレディあたりも甘ったるすぎたりしてあまり上手く行っていないような感じがする。などといいつつお前は竹達彩奈のライブに行って騒いでいたではないか、などとなじられたら返す言葉がないのだが、そこは目をつぶっていただきたく。

ともあれ花澤香菜も1stアルバムを聴いた時は正直いってどこか「くどさ」のようなものを感じていて、言ってみればスクラロースのような人工甘味料を口にしたときのようなテイストだった。確かにファーストインプレッションとしては素晴らしいのだけど何度も聞いていると疲れてしまうような楽曲が多かったのだが、3rdアルバム「Blue Avenue」は新たな局地に挑戦したようである。

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アイマス以外、流行に乗り遅れ続けている。

流行に乗り遅れる2つのパターン
  • 既に気づいた時には始まっていたパターン(凡ミス

  • 忌避した結果として乗り遅れたパターン(群れへの嫌悪感

流行に乗る難しさ

流行に乗るって意外と難しいと思っていて、最近まともにファンとして時流に乗れていると実感できたのはアイマスくらい。こないだのアイドルマスターシンデレラガールズの放映では数年ぶりに自分が流行に乗っているという感覚を得ることが出来た気がする。ほどほど周りのブームと自分の視聴時期が一致していた上に周辺コンテンツ含めて消化できて、かつ自分の気分が乗っていたという意味である。

時間が経つと熱気というのは消えてしまう。かつて一斉を風靡したといわれる作品でさえ、エヴァらき☆すたけいおんと、あの時のあのインターネットを介して、肌がひりひりするほど感じた熱意の塊も、徐々に徐々に私達の記憶の片隅から消えていき、最後には燃えかすだけが落ちていく。流行に乗れないというのは寂しいが、もはや誰にとってもありふれた経験になりつつある。

みんなが同じものを同じように齧っているような時代ではなくなっている、というのは再三言われ尽くしているが、いままさに流行に乗るという観点からみて、素朴な実感として感じている。コンテンツの細分化と多様化。今の時代はリアルタイムに流行に乗るというのが難しい。少し古い作品をさかのぼっている間に次から次へとコンテンツが供給されていく。気づいた時には既に始まっていたみたいなパターンも多い。

自分の中だと艦隊これくしょんなどがそうで、あれも録画しそこねたせいで、流行に乗れなかった。そもそもゲームが流行り始めた時点にやってないと乗り切れたと言えないのかもしれない。でもそのころ私は全然違うコンテンツを消費していたし、艦これに着手するリソースはその当時持ち合わせていなかった。しょうがないことだ。が、流行に乗り遅れた。悲しい話だ。

バカげたプライド

もうひとつ、忌避した結果として乗り遅れたパターンが自分の中で多くて、なぜ忌避するのかというと先行者が偉そうでうるさいからである。ざっくばらんにいうと、デレマスも本来ならこちらに所属する類のものである。なぜなら、行ってしまえば既存のファンも新参者も烏合の衆である。古参だからというだけで偉そうな人間がたくさんいる。デレマスに乗れたのは、さしあたって他の質の悪い人間に触れる機会が少なく、良心的な知り合いのPと喋ってただけで、個人的には閉じたコンテンツだったし、あまり他人を意識することがなかったからだと思う。

ええと、つまり何が言いたかったんだっけ? そうだ。他人を意識すると流行に乗り遅れるのだ。

まあ、結果として自分がうるさいファンの側に立っているのだろう。そうだ、今私はうるさい一介の新参者としてそこにいる。自分で自分に目を瞑ることが必要なのだ。他の誰かから見たらただのうるさいファンとして見られるかもしれないということについては積極的に妥協しなければならない。恥をかかなければいけない。

で、流行に乗るというのは本質的にはそういうことなので、それでいいと思った。おしまい。

Daydream caféの大久保薫濃度が低いと思っていたが勘違いだった

「心ぴょんぴょん~」云々で知られている、「ご注文はうさぎですか?」というアニメのOP曲。人に教えてもらって大久保薫だと知ったので驚いた。それ以来、特徴が薄い気がしてずっと頭のなかで引っかかっていたのだが、よく聞き返したらイントロのところでいつもの大久保薫だった。2番以降なんて色が丸出しだった。ので、大久保薫ファンの筆者の問題は自己解決した。

以上である。

考え方の違う人と接することについて

こないだカフェに居てぼうっとしていたら、隣の席にたまたま座った老婦人同士が延々とスピリチュアルな話題をしていて、その時初めて気づいたのだけど、世間にはこういうスピリチュアルな話題を好む人が多いということである。この間も東京ではあちらこちらに幽霊が見えるというなどという話題を、美容師に延々と振られてどうしたものかと辟易したものだったが、よく考えると私の祖父母もそういう話を好む傾向があり、例えば地方の妙な儀式なども霊的ななにかの存在を措定していると考えると、こういった考え方はむしろマジョリティを形成しているのかもしれない。そして私はこういうたぐいの人を無意識のうちに苦手にしている。この間まで理由がわからなかったが、端的に言えば、信仰の問題ということになる。

これは単純な信仰の問題なのだ、と一度認識すれば、別にそういった霊的な何かを信じていることについては私がとやかく言うことではないし、自分の考え方が正しいというのもおかしな話である、というのは理解できる。ただ、そういった人々が案外世の中のマジョリティを形成していることを考えると、そういう形而上の何かに対する信仰心というのは存外世の中にありふれていて、かつ私はそれを信じていないので、会話が噛み合わないということも多々あるのだろうなと思う。

他人と話が噛み合わないのはそもそも信じているものが根本的に違うのであって、それは良し悪しの問題とは全く別の次元であり、噛み合わなくても仕方がない。私が妥協的になることもないし、彼らが妥協的になることもないだろうし、お互いの会話は理解されることがなくシャボン玉のように宙に浮かんで消えていくのだろう。

考え方が根本的に違う人に合わせるのは不可能なので、そういう場合についての対処方法は、完全にそれが受容可能なものでない限り、一種の思考停止にとどめておくのが正しくて、同調しているという仕草だけを示して自分の側の理屈で考えるのをやめておくことにつきる。

異なった信仰を抱く人間同士が最大限お互いの幸福度を上げる、妥協的な方法というのは、一般的には相手の発言に対して共感と呼ばれるようなたぐいのサインを発信することである。そこに自分の論理を持ち込むことは共感を阻害する行為であり、相手の発言に対して矛盾を突きつける行為にほかならない。信仰が根幹から違う相手に対して、すなわち前提が咬み合わない人間に対して、論理的な思考であったり発言であったりというのは一切が邪魔なだけなので、他人と会話する上では思考は不要である。これを窮極的に突き詰めると、他人にたいして優しく接するためにはものを考えてはいけないという結論にたどり着く。

人と考え方が違う、それは悪いことでもいいことでもない。単なる信仰の違いであって、貴賎の問題でも優劣の問題でもないのだ。そして信仰の違う人間に対しては思考を止めなければならない。さもなくば双方が感情の面において不利益を被る。

惰性

なにか違う、自分以外の特別な才能をもった何かになりたいと思いながら夜、布団に入り、朝起きて薄ぼんやりとした視界にいつもどおりの手の甲をみとめて、同じ人間の存在であることに若干の失望を覚えつつも安堵のほうが大きい、というような日常を繰り返している。

景色を見る

観光名所だとか、絶景スポットだとか、そういうところに行っても、何か少しも琴線に触れるということがなく、ただ少し小綺麗なものがあるなとしか思えないことがある。人々は驚嘆しているような様子でそれを眺めているが、私はというと何も感じることがなく、そういうところに行くと自分の感受性のなさに寂しい気持ちがする、だから旅行に出ることは少ないし、なにか観光名所に行くとかいうことも気が進まないようだ。さすがに京都の寺くらいは見に行こうと思うことはあるけれども、それですらストリートマップで済むじゃないかという心持ちになることもある。

一方で、ありふれたいつもの町並みの、雨上がりとか季節の変わり目独特の光の差し込み方だけはかろうじて心を動かしている気がする。コンクリートまみれのつまらないとされる東京の景色のなかで何に心を揺すぶられているのかといえば、それは多分雨上がりの香りや、嵐の日の前の曇天や、風の吹くそわそわとする感覚が好きだからだ。見慣れた景色のパレットが少しいつもと違って見えるのは、多分実際気分がいいからなのだろう。ほんとうのところ、瞳孔が開いていたり、閉じていたり、差し込む光の量が日によって違うという関係もあるのかもしれない。東京はつまらないと言われる。カメラはいい。記憶より鮮明に感じたままの世界を描くことが出来る。

異国はもっといい。なにせ空の色からして日本と違う。前に外の国に出た時、適当に切ったシャッターが捉えた景色は、いつも過ごしている日常の延長にはない別の鮮やかさを醸していた。多分彼らにとっては当たり前の取るに足らない日常なのだろう。