シルバーペーパー

秘密結社「シルバーペーパー」

なにもかも小林秀雄に教わった木田元に教わった

 先日、ハイデガー研究で知られる哲学者で中央大名誉教授の木田元氏がお亡くなりになった。私が哲学になんとなく興味をもって、しかしどこから手を付けたらよいのかと途方にくれていたときに、とりあえず読んでみたのが木田元氏の『反哲学入門』であった。

この本ではまず哲学の取っ付き難さの原因たる「哲学」という言葉の解説から始まり、古代ギリシャから「神は死んだ」と宣ったニーチェまで受け継がれた西洋の哲学の流れを説き、そして氏が読みたくて仕方がなかった『存在と時間』で知られるハイデガーに至るまでを平易に示したものだ。話がわかりやすいのは当然だが、文章の巧妙さというか、「"反"哲学」という言葉からも分かる通り、滲み出る(時として皮肉な)ユーモア、そして歴史を痛快に暴く力のようなものが立ち昇ってきて、よくわからなくても面白くてどんどん読み進めてしまう。そういった意味で、読み物としておすすめ出来るのが『反哲学入門』だ。そしてそれが、私にとっての氏との出会いだと思う。そんなこともあり、私にはなんとなく氏のことを哲学の先生のように思っていた節があったので、訃報をニュースで知って、驚いたものだ。

 上の話とは別に、最近なんとなく小林秀雄の『モオツァルト・無常という事』を読み大変面白いものだなと思っていた。前に『ドストエフスキイの生活』を読んだときは正直退屈で*1、読み終わった時にはすっかり疲弊していたのだが、今度は全く異なった印象を受けたことに我ながら驚いたものだった。「モオツァルト」「西行」「実朝」「雪舟」あたりが好きだった。「無常という事」は少し難解すぎてまたいつかわかる日に読みたいものだと思った。そんな折に、先の訃報があった。前々から木田元氏の『なにもかも小林秀雄に教わった』の存在は知っており、いつか読もうくらいに考えていたものだが、これは哲学の先生へ追悼の意味を込めて読もうじゃないかとママから借りた札を握りしめて本屋に向かった次第である。

 本屋で小林秀雄の『Xへの手紙・私小説論』カート・ヴォネガット・ジュニアの『タイタンの妖女』と伴に購入して、とらのあなでへんりいだ氏の『はつこいりぼん。』を入手して財布が空になって帰った日の夜、さて読むかと開くと、たまらなく面白くてスイスイ読み進めてそのまま読了してしまった。やはり木田元氏の文章には何か魔力めいたものがあるのだ。

 大きな内容は、氏の戦後直後の苦労*2から、活字への飢え、文学少年としての覚醒、小林秀雄との出会い、哲学へ至るまでが前半と、後半では、氏の専門である「ハイデガー」と「小林秀雄」との共通点やその分析が載せられている。通して読むと、氏の人生観が構築されていく様を見れてとても面白い。それに読んでいると多く共感するところがあり、そしてまたハハンと関心させられるところもある。(氏の焦燥、不安、絶望、そういったものは今私が抱えているものに多分に近いと思う)だが、正直前半では小林秀雄はあまり出てこない。これについては氏も触れている。

本書のもくろみは、敗戦後ちょうど十五年間のその修学期の私の読書体験に小林秀雄がどれほど大きな役割を果たしたかを振り返って見ようというところにあった。だが、実際に思い出してみると、どうやら読書の師匠は小林秀雄に限られなかったことも明らかになってきたし、(以下略)」

そういうものだ。

 それはともかく、私はこの本を読んで「歴史の大きな流れ」のようなものを感じてとても感動したのだ。私が勝手に哲学の先生と位置づけた木田元氏が小林秀雄を読み、ドストエフスキイを読み、芥川龍之介を読み、松尾芭蕉を読んだ。また小林秀雄のほうも、ドストエフスキイを読み、ランボオを読み、実朝を読んだ。そして、モーツァルトを聴いた。そうした、紡がれていく読書の糸(当たり前だが一本の糸ではなく複雑に絡み合うよう在る)のような、大河のような、そんなものを感じたのだ。その大河の脇の河原の隅っこのほうに、もしかしたら自分がいるのだろうかと思うと、またそれもなんとも言えない感情を喚起する。だが悲しいことに、少なくとも、私には木田元氏と小林秀雄の両名のように無限に本を読むことは到底できないのだが。

 私としては、偉大な師匠をひとり失ったような気がする。とても悲しい。これまで多くの哲学者が本を通して古代ギリシャの偉人と出会ったように、より身近な哲学者として私は氏に触れ合ってきていたように思う。ただ、人は死ぬ。それほど確かなことはない。だからこそ、また本を通して先生に会いに行こうと思うのだ。氏が小林秀雄と会っていたように。

*1:そもそも序文の「歴史について」があまりに難解で脳みそをピストルで撃ちぬかれた気がした

*2:これは十八番のようなもので色々な著書で書いているが、やはり強烈な体験なので外せないのだろう